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 第5巻 第23章-2 藤原楚水著 省心書房

四 宋代書道のわが国への影響

 わが国の書道に対する中国書道の第三次の影響は、宋代の書風の移入である。この種の書道の移入は主として彼我の禅僧によって行われた。所謂宋風の書道とは、宋時に盛行し、また彼地の禅僧の間に流行した蘇東坡・黄山谷・米芾等の書を指し、その書には晉唐の規範や伝統から解放された一種の自由さと雄強さとがあり、奈良朝以来行われていた線の軟かい王羲之風のものと全くちがった趣があった。
 この宋風の書を最初に伝えたのが臨済の明菴栄西で、その書は筑前今津の誓願寺に蔵せる盂蘭盆縁起(国宝)によっても知らるる如く、多分に黄山谷の影響が見られる。

明菴栄西
 臨済宗開祖明庵栄西が、筑前国のくに今津誓願寺の盂蘭盆のため法華経を書写勧進した由来を自筆で認めた縁起。平安時代。(文化遺産オンライン)
誓願寺盂蘭盆縁起
(治承2年7月15日)


 ついで堀河天皇の貞応2年(1223)道元禅師が入宋して曹洞禅を伝えた。今、永平寺に蔵する普勧坐禅儀(国宝)は禅師の真筆であるが、これまた黄山谷の書の面影が見られる。張即之の書に近いと見る人もあるがそれは当らぬであろう。

道元 正治2年1月2日(1200年1月26日)-建長5年8月28日(1253年9月29日)
 日本における曹洞宗の宗祖。晩年には、希玄という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄。主著『正法眼蔵』は後世に多大な影響を与えている。(Wikipedia)
普勧坐禅儀 天福元年(1233)


 道元禅師の入宋帰国につぎ円爾(聖一国師)の入宋帰国(1236-1241)、宋僧蘭溪道隆(641)の来朝(1246)と、彼我の僧侶の往来がつぎつぎにつづき、それが宋から元へと及んだ。

円爾弁円(聖一国師) 建仁2年(1202)10月15日−弘安3年(1280)10月17日
 初め円爾房といい、のち円爾を実名とした。弁円は字。嘉禎元年(1235)入宋、無準師範の法を継いで仁治2年(1241)年帰国し、横岳の崇福寺、博多の承天寺などの開山となった。没後、応長元年(1311)花園天皇から聖一国師の勅諡号を受けた。その法流を聖一派という。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
 宋の国からたくさんの文化を持ち帰り、花園天皇から、日本の僧侶として初めての「国師」の号を贈られた。
宋からお茶の種子を持ち帰り、これを足久保に植えたのが静岡茶のはじまりと言われています。その他にも、織物や陶器、医薬の製法及び食料、そば等の栽培も奨励し、まさに郷土の生んだ大偉人と言えます。(奥藁科ウェブ)

法語 遺偈 弘安3年(1280) 二字書 爾然


蘭溪道隆 嘉定6年(1213)−弘安元年(1278)
 南宋から渡来した禅僧。諡は大覚禅師。俗姓は冉、名は莒章。法諱は道隆。号は蘭渓。涪州涪陵県蘭渓邑(重慶市涪陵区藺市鎮)の出身。大覚派の祖。無明慧性の法嗣、建長寺の開山。(Wikipedia)

看経榜断簡 再留前堂首座上堂語 尺牘(東福円爾宛) 風蘭


 而してその書には巧拙、品位の高下もあったが、大体が宋代の書風で且、禅僧らしい風格、面貌をそなえ、その精神生活の止揚が見られた。即ちその書には随分と思い切った法を無視したものもあったが、その剛健なる筆触や力強い迫力が当時の武士階級の嗜好と合致し、新に輸入せられた禅風と相俟って一部の階級に大なる歓迎を受けた。そして今もなお茶人その他の尊重するところとなっているが、それは飽までも傍系的のもので、かつてわが国書道の本流となることはなかった。尚、禅僧と書道とに関しては東京美術研究所発行の『画説』誌上に「五山詩僧の書」と題せる拙文を掲載したものがあるから、之を引用ずることとする。

五 山詩僧の書


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 奈良朝前のわが初期の書風は、六朝北魏のものに近いが、奈良朝時代は恰も唐朝の盛時にあたり、彼地に於ては専ら王羲之の書が行われた際であったから、自然にまたこれがわが国にも影響した。即ち天平勝宝6年(754)、わが国に初めて戒律を伝えた唐僧鑑真の『将来目録』にも王羲之の真蹟行書一帖及び王献之の真蹟行書三帖が見え(唐大和上東征伝)、天平勝宝8歳(756)6月21日の東大寺献物帳にも、王羲之の行草書廿巻があり、その他、正倉院の文書中にも写経生の王羲之の書を臨仿した反故を多く存している如く、この時代に於てはわが国に於ても専ら王右軍父子の書が臨仿せられ、その書風に彼我の差別を見がたいほどであった。
 その後、平安朝の初期には最澄、空海をはじめ入唐求法の沙門が多く、この頃から思想上に於て漸く日本主義が萌し、書もまた日本的に独立することとなった。即ち元来が遒媚秀潤を以って特色とした王羲之の書風は、わが国民性の優美豊潤なる情緒や、華麗清秀なる自然の環境に育まれて、更に一段の遒媚と清潤とを加え、仮名文字の完成と相俟って秀麗無比なる一種独得の日本的書体を造就するに至った。三蹟以下となっては、わが国の書道は全く中国風から離れて、真に日本的な独自の書風を完成している。これを中国の書に対して、和様と呼び、または上代様とも、上代流とも称する。
 一方、中国に於ては唐が亡びて五代、宋となり、一時文化が衰頽し、所謂四大家と呼ばるる蘇・黄・蔡・米の諸家が出ずるに及び、書風もまた従来二王を中心とした傾向から脱出して、専ら個性を本位と為し、筆墨をかりて自己の思想感情を現すこととなり、特色ある一種宋風の書が生れるに至った。
この宋風の書は、その剛健なる筆触や力強い魄力が当時の武士階級の趣味と合致し、新に輸入された禅風と相俟って一部の人々から大なる歓迎を受けた。

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 禅僧ではないが泉涌寺沙門俊笏もまた正治元年(1199)に入宋し、10余年の後建暦元年(1211)帰朝した。俊彷は筆翰を善くし、寧宗は詔して如意輪呪を書せしめ、秀州の周覺銭氏はその書を襲蓄し、その他、碑銘記讃を求むるもの履常に門に満ちたといわれる。京都泉涌寺に伝わる泉涌寺勧進疏を見るに、宋人では蔡京の書に最も近く、幾分黄山谷の書風が加味せられている。

国宝「泉涌寺勧縁疏」(京都 泉涌寺蔵)
 中国・南宋で学んだ 俊芿が承久元年(1219)、寺院創建へ寄付を願った文書で、後鳥羽上皇に献上し、天皇家からの支援を得て、開山の礎を築いたとされる。

 道元禅師の入宋は、俊彷の帰朝後10余年後であったが、その後また10余年にして東福寺開山円爾弁円(聖一国師)が入宋し、建長4年(1252)には浄智沙門静照(無象)、正嘉2年(1258)には東福寺沙門慧雲(山叟)、正元元年(1259)には大応国師南浦紹明が相次いで入宋して、皆宋風の書を伝えた。

南浦紹明 嘉禎元年(1235)−延慶元年(1308)12月29日
 臨済宗の僧。聖一国師(円爾)の甥。初め浄弁について学んだが、のち蘭渓道隆の門に入り、正元元年(1259)入宋して虚堂智愚の法を継ぎ、文永4年(1267)帰国した。嘉元2年(1304)上洛して亀山上皇のために禅を説き、同3年東山に嘉元寺を起こし、徳治2年(1307)鎌倉に下り、北条貞時の帰依を受けて建長寺に住した。死没の翌年の延慶2年(1309)、後宇多法皇から円通大応国師の勅諡号を下賜された。その門下を大応派といい、宗峰妙超が名高い。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

示円妙禅尼法語 徳治二年(1307) 法語


虎関師錬 弘安元年(1278).4.16−正平元年=貞和2年(1346)7月24日
 正安元年(1299)将に海に浮ばんとしたが母が強て之を止め、入元の志を果さなかったが、心を翰墨に傾け、黄山谷を学んで別にまた一家を成した。
 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧で、京都に生まれ、南禅寺・東福寺などに歴住し、国師号を受けた高僧。詩文にたけ、また多くの著書もあり、中でも仏教史書『元亨釈書』は有名。(文化遺産オンライン)

進学解
偈頌 花屋号
松関
法語 瑞巖道号并号頌 坐禅語


 宋が亡びて元となっても、五山禅僧の彼国に往来するもの跡を絶たず、嵩山居中、石室善玖、古先印元、慧広天岸、中厳円月、不聞契聞、雪村友梅等、多くの僧が入元したが、元が滅びて明となるも、絶海中津を始め多くの入明僧を見た。
 わが国より入宋、入元、入明せし僧侶の多いと共に、また彼国からも蘭溪道隆(建長寺開山)、無学祖元(円覚寺開山)、大休正念、兀菴普寧、一山一寧等多くの僧侶がわが国に投帰した。かく彼我の往来が頻繁を極むると共に、中国の文物が盛に輸入せられ、これらの僧人中、寧一山の如く筆札を工にするものも多く、帰化僧では清拙清澄、竺仙梵仙、明極楚俊、東陵永嶼等の書が名高く、書道方面に於ても所謂禅僧風の書体の成立を見たのである.

無学祖元
 臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。号は子元。来日して無学派(仏光派)の祖となる。鎌倉の建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与え、発展の基礎をつくった。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。(Wikipedia)

付衣偈断簡弘安3年(1280) 重陽上堂偈弘安2年(1279) 偈頌弘安9年(1286) 上堂偈 墨蹟弘安9年7月25日(1286)


大休正念 嘉定8年(1215)−正応2年(1289)
 中国、南宋の臨済宗の僧。仏源禅師。大休(仏源)派の祖。径山の石渓心月の門下。文永6年(1269)日本に渡り、鎌倉の寿福寺、円覚寺、建長寺を歴住し、浄智寺の開山となり、蘭渓道隆、無学祖元らとともに鎌倉の禅宗の興隆に尽した。弘安9年(1286)の書状(東京国立博物館)などすぐれた墨跡を残したが、書風は太く重々しい感じを特色とする。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

尺牘 天台石橋頌軸序 舎利啓白文 悼聖一国師状墨蹟


兀菴普寧 ?−至元13年(1276)
 無準師範の弟子。文応元年(1260)に来朝し、北条時頼の要請を受けて建長寺に住したが、時頼の死後は理解者を得られず、文永2年(1265)に帰国した。(文化遺産オンライン)

与東巌慧安尺牘庚午仲春 与東巌慧安語 大字 欠呻


一山一寧 淳祐7年(1247)−文保元年(1317)10月25日
 中国台州(浙江省)出身の臨済宗の僧。元の使者として来日し、鎌倉幕府に疑われて幽閉されたこともあったが、のち、建長寺・円覚寺・南禅寺に歴住。五山文学隆盛の糸口を作った。一山国師。一寧。(デジタル大辞泉)


進道語


園林消暑 偈


雪夜作


頌古


蠓 七絶

清拙清澄 咸淳10年1月3日(1274年2月11日)- 暦応2年/延元4年1月17日(1339年2月26日)
 清拙正澄(大鑑禅師)は元から来朝し、日本の風俗に即した禅林の規矩である大鑑清規を撰するなど、わが国の禅宗の発展に貢献した禅僧である。愚極智慧の法嗣。月江正印の実弟。嘉暦元年(泰定3年・1326)に53歳で招かれて来朝し、北条高時に迎えられて鎌倉・建長寺の第22世となった。そののち円覚寺や南禅寺を歴住し、元弘3年(1333)には後醍醐天皇の勅により京都・建仁寺第23世を嗣いだ。(e国宝)

法語
道号偈松山
南院国師忌拈香偈
墨蹟 偈頌 霊致別称偈 遺偈 平心字号


竺仙梵仙 至元29年(1292)11月15日−正平3年(1348)7月16日
 臨済宗。古林清茂の法をつぐ。嘉暦4年(1329)明極楚俊とともに来日し、浄智寺、南禅寺、建長寺などの住持となる。清茂門下の雪村友梅らと金剛幢下という友社をつくり、五山禅林で指導的役割をはたした。明州(浙江省)出身。俗姓は徐。号は来来禅子、思帰叟など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

諸山疏 偈頌


明極楚俊 景定3年(1262)−建武3年9月27日(1336年10月31日)
 中国元代の臨済宗の僧。元徳2年(1330)来日し、摂津国に広厳寺を開き、建長寺・南禅寺・建仁寺に歴住した。勅号は仏日焔慧禅師。(デジタル大辞泉)

禅林振首座賦 南浦語録跋


東陵永嶼 至元22年(1285)−貞治4年=正平20年(1365)5月6日 
 無学祖元の甥の子。足利直義の招きで観応2=正平6年に来日。諡号は妙応光国慧海慈済禅師。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
 二十四流と称される日本に禅をもたらした流派の一つ東陵派の祖である。(Wikipedia)


道号召庭

 禅僧風の書は、その根本は蘇・黄・蔡・米の四大家であるが、四大家中の蔡は、蔡襄でなく、蔡京であり、やや時代が降ったところでは張即之の影響が大である。法則を無視し、禿筆を以って縦横揮灑するところは、如何にも自由であり、その書もまた簡遠枯淡だが、一面また含蓄に乏しく、書品に於ては、聊か高雅さを欠く。

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 中国僧の書としては、蘭溪道隆のものはその自筆法語が建長寺に伝わっているが、その書風ほ宋の四大家に似ず、寧ろ張即之に近いものである。無学祖元の書は、その自草の書状が円覚寺に伝わり、兀庵普寧の書は、酒井伯爵家に伝わったものがあるが、いずれも米芾に近い。
 清拙清澄の書も酒井伯爵家に伝っているが、これはこの人独得の書風で殆んど痕跡がない。
強いて言えば唐の李北海あたりを学んだとも見える。
 明極楚俊は金の王庭笏あたりに近く、竺仙梵仙は米芾に近い。
 然してこれらの投帰諸僧の書風が、五山詩僧の書風に影響したことは勿論であるが、就中、宋の書風を齎らしたのは一山一寧である。一山一寧は楷草ともに之を善くし、その書の陸前松島雄島の碑は、わが国初の草書碑として著名である。
 我が五山の詩僧の中では、夢窗疎石、石室善玖、中厳円月、鉄舟徳済、月林道皎、寂室元光、絶海中津、義堂周信、中芳中正、横川景三、策彦周良等が名高い。

夢窗疎石 建治元年(1275)−正平6年=観応2年(1351)9月30日
 鎌倉末〜室町初期の臨済僧。伊勢の人。鎌倉の各寺で参禅し、一山一寧・高峰顕日に師事。初め後醍醐天皇の帰依を受け、のち足利尊氏の信任を得た。天竜寺を開創し、天竜寺船による宋との貿易を促し、安国寺・利生塔の造立に功が大きかった。その門(嵯峨門派、夢窓派)には春屋妙葩らの俊秀が多く、五山文学の最盛期をつくった。また造園にすぐれた。(百科事典マイペディア )
 疎石の門下には無極志玄の外、春屋妙葩、鉄舟徳済、絶海中津、龍湫周沢、義堂周信等の英才を出し、嗣法のもの五十以上に及び、法統が長く存続した。夢窗国師の書は多少の和習があって、幾分弘法大師などに似たところもあるが、その飛動的な点は矢張り宋人の書の影響を受けたものであり、この派に属するものは皆、宋・元・明の書を学んだものと見て差支あるまい。

古徳偈 別無工夫 二行書 円覚経偈


石室善玖 永仁2年(1294)−康応元=元中6年(1389)9月25日
 筑前の人、文保2年(1318)、古先元、無涯浩等と舟を同じくして元に入り、一時の禅匠はその門を敲かざるはなく、7年の後、嘉暦の初、諸友とともに東帰した。義堂、絶海等と善く、円覚、建長等に住持となった。
 石室は多くその書蹟を見ないが、服部玄三氏所蔵の詩幅を見るに、禅僧の書中に於ても最も卓出せるもので、宋元人の書に見がたい気品をそなえ、寧ろ後の王鐸あたりに似て、より晉唐に近いところがある。その外は石室の開山である平林寺に近い松永一洲氏の柳瀬荘に多く収蔵せられているとのことである。


寒山詩


雪山曇公餞別偈


墨跡


旧劫庵


偈頌

中厳円月 正安2年(1300)−文中4=応安8年(1375)1月8日
 南北朝時代の臨済宗の僧。別に中正叟と称した。幼い頃から密教を学んだが、来朝僧の東明慧日から学んで曹洞宗に帰した。正中2年(1325)入元して古林清茂らに学び、臨済宗大慧派の東陽徳輝の法を継いで元弘2=正慶元年(1332)帰国。万壽(相模、豊後、京都)、建仁、建長諸寺に歴住し、近江竜興寺を開き、建仁寺に退居した。五山学芸の第一人者として、のちの五山文学に大きな影響を与えた。仏種慧済禅師と諡される。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

鉄舟徳済 ?−貞治5年(1366)9月15日
 南北朝時代の禅僧。夢窓疎石の法嗣。別号を百拙。中国の元に渡って順宗皇帝から円通大師号を賜わり、興国2年(1341)帰国後は阿波補陀寺、京都万寿寺に歴住、嵯峨の竜光院に退去した。文人化した禅僧の典型で、詩文、草書、余技水墨画をよくした。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 賈島詩
 この書は、「早秋の天竺・霊隠寺に寄せて」と題する唐の詩人賈島の七言律詩を書いたものです。中国の詩ですが、書風には穏やかな和様の雰囲気が伺えます。(文化遺産オンライン)


月林道皎 永仁元年(1293)−観応2年(1351)
 鎌倉後期、南北朝初期の臨済宗の僧。久我具房の子。別号は独歩叟。京都の人。高峰顕日の門人。元に渡って保寧寺の古林清茂の法を嗣いだ。帰国後、京都に長福寺を開き、花園法皇ほか公家の帰依をうけた。著に「月林皎禅師語録」二巻がある。勅諡号は普光大幢国師。(精選版 日本国語大辞典)

寂室元光 正応3年5月15日(1290年6月23日)−貞治6年=正平22年9月1日(1367年9月25日)
 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。美作高田の出身。俗姓は藤原氏。一説によれば小野宮藤原実頼の後裔とされる。諱は元光。道号は初め鉄船と号したがのちに寂室と称する。諡号は円応禅師、昭和3年11月には正燈国師の諡号あり。(Wikipedia)


餞別偈


道号越谿


越谿号説


七言一行書


室元光消息

絶海中津 建武元年11月13日(1334年12月9日)− 応永12年4月5日(1405年5月3日)
 生年は建武3年という説もある。
 南北朝時代から室町時代前期にかけての臨済宗の禅僧・漢詩人。道号は絶海のほかに要関、堅子、蕉堅道人など多数ある。中津は諱。

 義堂周信と共に「五山文学の双璧」と併称されてきたが、20世紀後半から義堂より詩風の高さを評価され、五山文学ひいては中世文芸史の頂点を為すと論じられている。(Wikipedia)
 その書の伝はるものに京都の相国寺の十牛頌があるが、一見して元の趙子昂を学んだことが知れる。


山空松子落

義堂周信 正中2年(1325)−元中5=嘉慶2年(1388)5月4日
 南北朝時代の五山の禅僧。土佐の人。夢窓疎石の弟子となり臨済宗に帰依した。鎌倉円覚寺に入り、のち京都建仁寺、南禅寺等に住す。詩文の才に長じ、詩文集に《空華集》、日録に《空華日工集》があり、絶海中津とともに五山文学の代表者。(百科事典マイペディア)
 義堂の書は円覚寺の塔頭黄梅院に華厳塔勧縁小偈が蔵せられているが、その書風は強いて云えぽ聖徳太子御筆法華義疏(帝室御物)に近いともいえるが、出自は明かにしがたい。

仲芳中正 文中2=応安6年(1373)−宝徳3年(1451)
 相国寺普広院の僧で、絶海の門に学び、博学を以って一世に名があったが、出でて就かず、平僧に終った。書は真草兼ねよくし、当時仏宇、官舎の殿門の榜書、柱壁の題字は殆んどその一手に出た。応永8年(1401)国信使に随って明に入るや、明の成祖の依頼で永楽通宝の文字を書した。中芳の楷法は、宋人の書を学んだというよりは寧ろ唐人に近く、唐人中にも虞世南の孔子廟堂碑に最も近く、五山詩僧中の異彩で、この派の書を正蔵主様といった。
 永楽通宝は、中国明代の第3代皇帝永楽帝の永楽9年(1411)より鋳造され始めた銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易や倭寇によって大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通。永楽銭・永銭などと呼ばれた。(Wikipedia)

横川景三 永享元年(1429)−明応2年11月17日(1493年12月25日)
 相国寺の詩僧として特に著名であり、その筆蹟の伝わるものに識廬庵記がある。横川は応仁の乱に難を近江に避け、同国の豪族小倉右近将監実澄の招きによりて永源寺識廬庵に住し、閑居5年の後、文明4年(1472)相国寺の小補庵に帰った。その後実澄は京師に於ける横川の窮乏の情を聞いて詩を贈り、再び識廬庵に迎えんとした。その詩に対して横川は知己の禅僧に次韻を求め、天隠龍沢が序を書き、蘭坡景茝が跋を書き、その他瑞仙、周麟等が詩を題し、横川がその由を記し、文明6年(1474)、幅に仕立てて実澄に贈ったのがこの識廬庵記である。横川の書風は黄山谷に近い。
 室町時代中期から後期にかけての禅僧(臨済宗)。後期五山文学の代表的人物。室町幕府8代将軍足利義政の側近、外交・文芸顧問。横川は道号で、法諱が景三。他に金華、小補、補庵、万年村僧などとも号する。(Wikipedia)
 五山送り火の内、大文字の筆画には真言宗の宗祖である弘法大師・空海説、相国寺79世・横川景三説などがあります。(京都ガイド)

天隠龍沢 応永29年(1422)−明応9年9月23日(1500年9月23日)
 室町時代の臨済宗の僧で、漢詩人でもあった。播磨(兵庫県)の人。龍沢は法諱である。はじめ道号を天岩と言い、後に天隠と改めた。別に黙雲と号す。(Wikipedia)

蘭坡景茝 応永26年(1417)−明応10年2月28日(1501年3月17日)
 室町時代中期から戦国時代にかけての臨済宗の僧。別号は雪樵。近江国の出身。南禅寺に入り大模梵軌に師事してその法を継ぎ、希世霊彦や瑞巌龍惺らに漢詩文を学んだ。文明7年(1475)臨川寺の住持となり、その後は相国寺・等持院・常在光寺などの住持を歴任し、南禅寺内に仙館軒(のちに仙館院)を創建している。後土御門天皇に重用され、漢詩などを進講している。(Wikipedia)

桃源瑞仙 永享2年(1430)6月17日−延徳元年(1489)10月28日
 室町時代の臨済宗の僧。京都相国寺の第 80世。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

景徐周麟 永享12年(1440)−永正15年(1518)3月2日
 室町中期の五山禅僧。字は景徐、諱は周麟。別に半隠、宜竹と号す。大館持房の子。夢窓派の用堂中材に参じ、その法を継いだ。学芸を瑞渓周鳳、横川景三らから受け、景徳・等持・相国・南禅の諸寺に住した。その間、明応6年(1497)2月相国寺鹿苑院に入り、1500年4月23日まで僧録の業務をつかさどった。(改訂新版 世界大百科事典)

策彦周良 文亀元年4月2日(1501年4月19日)−天正7年6月30日(1579年7月23日)
 戦国期の禅僧。諱は周良、字は策彦。謙斎とも称する。井上宗信の子。永正15年(1518)天竜寺で得度。大内義隆の要請で天文6年(1537)と天文16年(1547)の2度、入明進貢船団の副使・正使の任につき入明。その後、天竜寺妙智院に住み、同寺の護持につとめた。2度の入明の旅を克明に記録した「策彦入明記」がある。また五山文学僧として活躍し、詩文集を残す。(山川 日本史小辞典 改訂新版)
 策彦の書風には、嵯峨天皇の李僑詩、欧陽詢の行草書といった趣が見られるが、横川景三の書と
ともに稍や器用に過ぎ、書としての風韻は必ずしも高いとは称しがたい。


天正六年三月


探春


墨跡


七言絶句


色紙

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 五山詩僧の書は、奈良朝をも、平安朝をもうけたものでなく、別にその源を宋元に発したものであり、その下流もまた決して徳川時代の書道の源とはなっていない。即ちわが国の入木道の本流は、依然として鎌倉、室町、徳川時代を通じて三筆三蹟をうけた世尊寺家の上代様に存し、宋元の書風を伝えた五山詩僧の書は、別の存在として傍流を成しているに過ぎなかった。即ち上代様にもいろいろと盛衰があり、一時復古が唱えられて、近衛信尹本阿弥光悦、及び松花堂昭乗等所謂寛永の三筆が出たが、これらは皆上代様の流を汲めるもので、五山詩僧の書とは何の交渉ももたなかったのである。

近衛信尹 永禄8年(1565)−慶長19年(1614)11月25日
 はじめ青蓮院流の書法を学び、慶長になってから近衛流や伝統的な三藐院流の書風に変化します。その後、藤原定家の書風が加わり、近衛信尹独自の個性を加味した力強い筆力で速書きの豪放な書風が確立します。
近衛信尹の書は、潔く、豪快で、力強いのが特徴です。


源氏物語抄


調度手本


和歌懐紙松添栄色


三十六歌仙帖


勘返状

本阿弥光悦 永禄元年(1558)−寛永14年2月3日(1637年2月27日)
 平安時代に書写された古今集「本阿弥切」の名がその所持にちなむように平安古筆を範とし、書法に活かすだけでなく、料紙技法の研究開発を手がけた。(東京国立博物館)
 寛永の三筆の一人と称され、光悦流の祖と仰がれる。元和元年(1615)の大坂夏の陣の後には徳川家康から京都北部の鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などを率いて移住し、芸術村(光悦村)を築いた。(美術手帳)


色紙帖(新古今和歌集)


秋風辞漢武帝


西行和歌巻断簡


少将内侍和歌色紙


中山法華経寺(千葉県)扁額

松花堂昭乗 天正12年(1584)−寛永16年9月18日(1639年10月14日)
 江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。姓は喜多川、幼名は辰之助、通称は滝本坊、別号に惺々翁・南山隠士など。俗名は中沼式部。堺の出身。書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び、独自の松花堂流(滝本流)という書風を編み出した。茶道は小堀政一に学んだ。
 なお松花堂弁当については、日本料理・吉兆の創始者が見そめ工夫を重ね茶会の点心等に出すようになった四つ切り箱、それを好んだ昭乗に敬意を払って松花堂弁当と名付けられたとする説がある。(Wikipedia)


阿房宮賦


「潮音堂」額字


杜牧詩漢江


三十六歌仙帖(人丸)


和歌巻

その後、新に明朝の書風が輸入せられて唐様というものが始ったが、これも肥後の人北島雪山、その弟子の細井広沢等より起ったものであり、雪山は幼時長崎に於て明人の兪立徳というものから、明の文徴明の書法を伝えられ、後に文徴明の外、元の趙子昂を学び、また黄蘖僧の即非、独立にもその法を聞き、以って一家を成するに至ったもので、これも五山詩僧の書とは殆んど交渉がなかった。

北島雪山 寛永13年(1636)/寛永14年(1637).−元禄10年(1697)11月12日 /元禄11年(1698)12月14日
 江戸時代中期の書家、儒学者(陽明学派)。名は三立、号は雪山、花隠、蘭隠。医者の父に従って長崎へ行き、書法を明僧の兪立徳および黄檗僧即非、独立に学んだ。さらに元の趙孟頫 、明の文徴明の書風に私淑し、延宝5年(1677)江戸へ出て唐様の雄健な書風をもって名声を築いた。江戸時代における唐様書道の先駆者といわれ、門下より細井広沢が出た。また陽明学を修め文学にも長じ、性格は豪放で酒を好み奇行が多かった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

唐詩巻 楽志論 得声不離門 行書十字


林鳳岡 寛永21年12月14日(1645年1月11日)−享保17年6月1日(1732年7月22日)
 江戸時代前期・中期の儒学者。特に元禄時代の将軍・徳川綱吉のもと江戸幕府の文治政治の推進に功績があったひとり。父は林鵞峰。名は又四郎・春常・信篤。字は直民。号は鳳岡・整宇。(Wikipedia)

細井広沢(廣澤) 万治元年10月8日(1658年11月3日)−享保20年12月23日(1736年2月4日)
 江戸時代中期の儒者、書家。名は知慎、字は公謹、通称は次郎太夫。号は広沢、思貽斎、蕉林庵、玉川奇勝堂。江戸に出て医を業とするかたわら北島雪山に書法を、林鳳岡に儒学を学んだ。書に最もすぐれ、師の雪山とともに江戸時代の唐様の代表的書家。また柳沢吉保に重用され建言して荒廃していた歴代御陵の修復にも尽した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)


七言律詩


楽志論


岳陽楼記


明倫堂額書


王蒙詩閑適

即非如一 万暦44年5月14日(1616年6月27日)−寛文11年5月20日(1671年6月26日)
 江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は林氏。字は即非。福建省福州府福清県の出身。(Wikipedia)

独立性易 万暦24年=慶長元年2月19日(1596年3月17日)−寛文12年11月6日(1672年12月24日)
 中国明末に生まれ、清初に日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧である。医術に長け、日本に書法や水墨画・篆刻を伝えた。
 その書の識見は高く中国伝統の本流の書を日本に示し、のちの唐様流行の基となった。また禅僧でありながら文人気質に富み、日本文人画の先駆けとなる水墨画を残している。同じく帰化僧の化林性tとともに長崎桑門の巨擘と称賛される。篆刻においても日本篆刻の祖として称揚される。
 俗姓を戴、諱をはじめ観胤、ついで観辰のちに笠とした。字を子辰のちに曼公。日本で得度した後は独立性易と僧名を名乗った。荷鉏人、天外一關l、天陂V人、就庵などを号とした。文人・書家などからは戴曼公と称されることも多い。浙江省杭州府仁和県の出身。(Wikipedia)

わが国書道の本流を為し来った上代様は、その淵源を晉唐に発し、これが日本化せられたもので、徳川の末まで続いた。次は五山詩僧の書で、これは源を宋元に発し、禅僧の一部に限られて行われ、以って今日に及んでいる。徳川時代の唐様は、元明以降の書を伝えたもので、これが明治の初年にまで及んだ。

 この外では黄檗一派の書がある。黄藁宗の開祖隠元は福州の人で、泰昌元年(1620)、州の黄蘖山に登りて出家し、臨済宗の無準の法系に属する密雲円悟、費隠通容に嗣法し、黄蘖山の中興開祖と崇めらるるに至った。隠元がわが国に渡来したのは63歳のときで、長崎の興福寺の逸然の請待によるものであるが、妙心寺の龍溪等の周旋で将軍家綱に謁し、その歓待を受け、当時近衛家の領地であった山城の宇治郡岡屋郷に地を選んで一寺を開き、明の黄蘖山万福禅寺にならって黄購山万福禅寺と号した。

黄檗宗
 日本の三禅宗のうち、江戸時代開府はじめの明朝復興の願いに始まった一宗派。江戸時代初期に来日した隠元隆g(1592-1673)を開祖とする。本山は、隠元隆gの開いた京都府宇治市の黄檗山萬福寺。

隠元隆g 万暦20年=天正20年(1592年12月7日)−康熙12=寛文12年(1673年5月19日)
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、厳統大師
 明末清初の禅宗の仏教僧。江戸時代初期に来日し、日本黄檗宗の祖となった。俗姓は林氏。福建省福州府福清県の出身。
 隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅と様々教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。
 なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、京の宇治に煎茶としての茶の製法と喫し方を持ち込み、煎茶道の開祖ともされる。また、普茶料理と呼ばれる精進料理を広めた。能書家としても知られ、木庵性瑫・即非如一とともに黄檗の三筆と称される。江戸時代前期の文化のうち、隠元の影響が見られるこれらを黄檗文化と総称することもある。(Wikipedia)

臨済宗
 中国の禅宗五家(臨済・潙仰・曹洞・雲門・法眼)の一つ。日本の他に、中国、台湾、韓国などにも信徒を持つ。
 日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の一つ。また鎌倉仏教の一つである。曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。(Wikipedia)

無準師範 淳熙4年(1177)−淳祐9年3月18日(1249年5月2日)
 中国の南宋の臨済宗の僧。俗姓は雍。法諱は師範。号は無準。剣州梓潼県の出身。宋代禅林中の巨匠で理宗から仏鑑禅師を諡された。
 書法に長じ、多くの墨跡の名品を日本に伝えており、その書は張即之風で雄渾な大字で知られる。また『与円爾尺牘』の細字には別趣の味わいがあり、いずれも極めて格調が高い。無準は張即之と交渉をもったため、その弟子たちは好んで張即之の書を学んだ。(Wikipedia)


与円爾尺牘


山門疏(勧縁疏)


円尓号


禅院額字并牌字のうち普門院


与円爾印可状

密雲円悟 嘉靖45年(1566)11月16日−崇禎15年(1642)7月7日
 中国の明末の臨済宗天童派の禅僧。俗姓は蒋。法諱は円悟。号は密雲。常州府宜興県の出身。費隠通容の師であり隠元隆gの師翁にあたる。(Wikipedia)

費隠通容 万暦21年5月24日(1593年6月22日)−順治18年3月29日(1661年4月27日)
 中国の明末清初の臨済宗天童派の禅僧。隠元隆gの師として知られる。俗姓は何。法諱は通容。号は費隠。福州府福清県の出身。

 隠元の法流は上述の如く臨済宗ではあるが、明末に出た雲棲袾宏の影響をうけて参禅念仏融合一致を説くことが他と異なる点であるという。隠元は書を工にし、その門流の木庵、即非、独湛、独立、心越、高泉等皆能筆を以って称せられ、当時、黄蘖はまた恰も書学の淵叢の如き観を呈し、就中、隠元、木庵、即非は黄窮の三筆を以って称せられ、諸家の珍襲するところとなったが、前述の如く、黄蘖派は五山詩僧の書とも、新興の唐様ともちがい更にまた別の一派である。

木庵性瑫 万暦39年2月3日(1611年3月16日)−貞享元年1月20日(1684年3月6日)
 江戸時代前期に明国から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は呉氏。勅諡号は慧明国師。福建省泉州府晋江県の出身。
 能書家としても知られ、その書風は中国人ならではのものがあり、隠元・即非とともに黄檗三筆と称されている。三人には共通した書風があり、隠元の「穏健高尚な書」・木庵の「雄健円成な書」・即非の「奔放闊達な書」と評され「唐風」あるいは「黄檗風の書」として珍重されている。(Wikipedia)


闡渠C月明


五言二句


無事


草書横幅


扭捏瞿曇鼻

即非如一 万暦44年5月14日(1616年6月27日)−寛文11年5月20日(1671年6月26日)
 江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。俗姓は林氏。字は即非。福建省福州府福清県の出身。
能書家とし知られ、黄檗の三筆と称される。詩を善くし、禅味のある観音・羅漢・蘭竹を画いたが、これは日本の文人画のさきがけとされる。(Wikipedia)

結果自然成 黄梅 置字大幅 行書五絶 行書五言詩


独湛性瑩 崇禎元年9月27日(1628年10月23日)−宝永3年1月26日(1706年3月10日)
 俗姓は陳氏。福建省興化府莆田県の出身。(Wikipedia)
 順治11年(1654)6月黄檗宗開祖隠元禅師に従って来朝し、総本山黄檗山萬福寺の創建を助けた。寛文4年(1664)に近藤貞用の招請に応じて初山宝林寺を創建し、この地の産業や文化の向上に努め黄檗禅は隆盛を極めた。18年間住職を務めた禅師は黄檗山萬福寺の第4代住職となりこの地を後にした。
 生涯、師である隠元禅師の禅風を守り禅と浄土を兼修し修行、布教に努めた禅師は誰言うともなく念仏和尚独湛禅師と呼ばれた。(初山宝林寺)

独立性易 万暦24年2月19日(1596年3月17日)−寛文12年11月6日(1672年12月24日)
 中国明末に生まれ、清初に日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧である。医術に長け、日本に書法や水墨画・篆刻を伝えた。その書の識見は高く中国伝統の本流の書を日本に示し、のちの唐様流行の基となった。また禅僧でありながら文人気質に富み、日本文人画の先駆けとなる水墨画を残している。同じく帰化僧の化林性tとともに長崎桑門の巨擘と称賛される。篆刻においても日本篆刻の祖として称揚される。
 俗姓を戴、諱をはじめ観胤、ついで観辰のちに笠とした。字を子辰のちに曼公。日本で得度した後は独立性易と僧名を名乗った。荷鉏人、天外一關l、天陂V人、就庵などを号とした。文人・書家などからは戴曼公と称されることも多い。浙江省杭州府仁和県の出身。(Wikipedia)


猛虎一聲山月高


銭起詩秋夜送趙冽歸襄陽

東皐心越 崇禎12年8月21日(1639年9月18日)−元禄8年9月30日(1695年11月6日)
 江戸時代初期に中国から渡来した禅僧。俗姓は蒋氏、名は初め兆隠のちに興儔、心越は字、東皐は号で別号に樵雲・越道人がある。詩文・書画・篆刻など中国の文人文化、なかんずく文人の楽器である古琴を日本に伝え、日本の琴楽の中興の祖とされる。また独立性易とともに日本篆刻の祖とされる。(Wikipedia)

隸書偈二首 草書五律幅 與慎老書


高泉性潡 崇禎6年10月8日(1633年11月9日)−元禄8年10月16日(1695年11月22日)
 江戸時代前期に中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県東閣の出身。俗姓は林氏。号が高泉で、法諱が性潡である。(Wikipedia)





行書登廓岱亭詩





白雲深處金龍躍


壽與天齊福隨春到

六 元明書道のわが国への影響

 元に趙孟頫。明に祝允明・文徴明の徒があって書道の晉唐復古を唱えて以来、その影響はまたわが国にも及び、徳川時代、帖学復興して、趙孟頫や文徴明、董其昌などの書や、又元明人を通じての晉唐人の書を学ぶものが多く現われた。所謂唐様なるものがそれである。そのころまた明の遺眠の朱舜水や僧の心越などが相ついでわが国に来航し、また隠元・木庵・即非など黄蘖僧の投帰するものがあり、その門流の独湛・独立・高泉等みな能筆を以って称せられ、一時黄蘖は書学の淵叢たるの観を呈した。彼等は禅僧ではあるが、その書は従来の禅僧体とちがい、やはり一種の明人体のもので、わが書家のこれに法を問うものも少なくなかった。
 この時代、明人の書法を初めて伝えたのが肥後の人北島雪山で、これについで細井広沢が著名である。また幕府の儒学奨励によって漸く勢力を得た儒者の間にもこの派の書を学ぶものを生じ、唐様は一般を通じて広く一種の勢力を占むるに至り、この間、関思恭・松下鳥石・三井親和・龍草廬・韓天寿・沢田東江・亀田鵬斎・僧良寛・秦星池・狩谷掖斎・巻菱湖・貫名海屋・市河米庵・頼山陽・小島成斎・中沢雪城など、多くの書家を輩出した。

関思恭 元禄10年2月17日(1697年3月9日)−明和2年12月29日(1766年2月8日)
 儒学を太宰春台に、書を細井広沢にまなぶ。草書にたくみで、草聖とよばれた。江戸で書道塾をひらき、のち常陸(茨城県)土浦藩につかえた。本姓は伊藤。字は子粛。通称は源内。号は鳳岡。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

松下烏石 元禄12年(1699)- 安永8年9月23日(1779年11月1日)
 江戸時代中期の日本の書家である。名は辰、字は君岳・神力・龍仲など。号は烏石の他に菽竇処士・青蘿主人・東海陳人・白玉斎など。修姓を葛として葛烏石・葛辰とも称した。江戸の人。(Wikipedia)
 儒学を服部南郭に、書を佐々木文山、細井広沢にまなんだ。門人に飯田百川、脇田赤峰ら。姓は葛山、葛とも。名は辰、曇一。字は君岳。別号に東海陳人など。著作に「書学大概」「櫂推字原」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

僧良寛 宝暦8年10月2日(1758年11月2日)−天保2年1月6日(1831年2月18日)
 江戸後期の禅僧、歌人、書家。俗名山本栄蔵。号は大愚。越後出雲崎の名主兼神職の子に生まれた。18歳で出家、22歳ころから国仙和尚に従い備中玉島円通寺で10余年修業。その後各地に草庵を結び、47歳のとき越後国上山の五合庵に入った。生涯、寺をもたず托鉢によって生活し、法を説かずに感化を与え、郷党の深い尊信を受けた。《万葉集》を愛し、格調高く、しかも自在純真な歌を読み、書は懐素を慕って風韻に富んでいる。全集、歌集のほか評伝も多い。(百科事典マイペディア)

秦星池 宝暦13年(1763)−文政6年3月8日(1823年3月8日)
 江戸後期の書家。名は其馨、字は子馨、通称は源蔵。別号に菊如斎はじめ松會平陵に師事し、孫過庭を摸す。のちに長崎で清の書家・胡兆新に書法を学んだ。楷書・行書を能くした。(Wikipedia)

狩谷掖斎 安永4年12月1日(1775年12月23日)−天保6年閏7月4日(1835年8月27日)
 江戸時代後期の考証学者である。名は初め高橋真末、後に改名して望之、字は卿雲、通称は津軽屋三右衛門(11代目)、別号を求古楼。戒名は常関院実事求是居士。
 江戸の下谷池之端仲町に生まれる。父は書籍商・高橋高敏。25歳で従祖弟・狩谷保古の養子となる。津軽藩御用達という富裕な町人身分にして、幼少時から学問を好み、1794年ころから屋代弘賢に師事して和漢の学を授けられた。(Wikipedia)

小島成斎 寛政8年(1796)12月10日−文久2年(1862)10月18日
 江戸時代後期の書家、儒者。備後(広島県)福山藩士。江戸で市河寛斎・米庵父子にまなぶ。嘉永6年(1853)ロシアへの復書を清書する。のち狩谷棭斎、松崎慊堂に師事し、古法帖や金石文を研究した。名は知足。字は子節。通称は五一。別号に静斎。著作に「急就章文字考」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(以下 好古齋 参照)

三井親和 元禄13年(1700)−天明2年(1782) 三井親和

龍草廬 正徳4年(1714)−寛政4年2月2日(1792年3月24日) 龍 草盧

韓天寿 享保12年(1727)−寛政7年(1795) 西脇呉石(=韓天寿)

沢田東江 享保17年(1732年)−寛政8年6月15日(1796年7月19日) 澤田 東江

亀田鵬斎 宝暦2年(1752)−文政9年(1826) 亀田 鵬斎

巻菱湖 安永6年(1777)−天保14年(1843) 巻 菱湖

貫名海屋 安永7年7月3日(1778年7月26日)−文久3年5月6日(1863年6月21日) 貫名菘翁

市河米庵 安永8年9月16日(1779年10月25日)−安政5年7月18日(1858年8月26日) 市河 米庵

頼山陽 安永9年(1780)−天保3年(1832) 頼 山陽

中沢雪城 文化7年(1810)−慶応2年(18662月) 中沢 雪城

 そしてこの唐様書風は、禅僧体の書がわずかに傍流として存在したのとちがい、和様書道と相対して隠然たる大勢力を形成し、以って明治維新に及び、平安朝以来徳川時代を通じて長く王座を占めていた御家流に代って、わが国書道の本流となり、その大統をついだ。

七 清朝碑派書道のわが国への影響

 唐様の書派は、明治時代に入って後も、その中から佐瀬得所・松田雪柯・長三洲・成瀬大域・高橋泥舟・金井金洞等の諸家を出し、巖谷一六・日下部鳴鶴なども初めはこの派の書を学んだが、偶々明治13年(1880)に至って清国より楊守敬が来朝して碑派の書道を伝えるに会し、また楊守敬の携え来った多くの碑版文字を見ることができ、書は晉唐六朝に溯るべきであるというその説に動され、爾来専らその方面の研鑚に沈潜し、書風全く一変し、その後に於けるわが国の書道界に大なる影響を与えた。

松田雪柯 文政6年3月5日(1823年4月15日)−明治14年(1881)9月3日
 伊勢山田(三重県伊勢市)生まれの書家。名は元修、字は子践、幼名は慶太郎、通称は縫殿、雪柯は号で、別号に澹所などがある。
 幕末の三筆と称される貫名菘翁の書法を日下部鳴鶴・巖谷一六などに指導した。また、明治13年(1880)、清の楊守敬が漢魏六朝の碑帖を携えて来日した後、巌谷一六・松田雪柯・日下部鳴鶴の3人は楊守敬に師事して書法を研究し、六朝書道を提唱し興隆させた。(Wikipedia)

成瀬大域 文政10年(1827)1月 - 明治35年(1902)2月5日
 書家である。字は子直。通称は久太郎。大域、賜硯堂主人と号する。本名は温。遠江国佐野郡日坂(静岡県掛川市日坂)出身。書を母方の祖母巣甫に学ぶ。明治初年、東京に出て、漢学を安井息軒・芳野金陵・川田甕江に学ぶ。明治13年(1880)の楊守敬の来日に始まる日下部鳴鶴・巖谷一六・松田雪柯・中林梧竹を中心とした六朝書道は正しい書道ではないとして非難し、長三洲らと同様に顔法に傾倒した。また、字学に精通し、文部省検定習字帖の誤字を正した。(Wikipedia)

高橋泥舟 天保6年(1835)−明治36年(1903)2月13日
 江戸時代末期の幕臣で槍術家。山岡正業の次男。通称、精一。高橋家の養嗣子となった。文久2年(1862)講武所師範役、翌年新徴組を統率、のち遊撃、精鋭両隊を統率し、恭順派に加わって徳川慶喜を護衛した。山岡鉄舟の義兄にあたり、勝海舟とともに幕末三舟の一人。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

佐瀬得所 文政5年10月28日(1822年12月11日)−明治11(1878)年1月2日 佐瀬 得所

長三洲 天保4年9月23日(1833年11月4日)−明冶28年(1895)3月13日 長 三洲

金井金洞 天保4年(1833)9月−明治40年(1907)5月1日 金井 金洞

巖谷一六 天保5年2月8日(1834年3月17日)−明治38(1905)年7月12日 巌谷 一六

日下部鳴鶴 天保9年8月18日(1838年10月6日)−大正11年(1922年)1月27日 日下部 鳴鶴

楊守敬 道光19年(1839)−民国4年(1915) 楊守敬