日下部 鳴鶴 くさかべ めいかく
   

清 慎 勤
37p×126.5p

天保9年8月18日(1838年10月6日)生〜大正11年(1922年)1月27日歿
 彦根藩士・田中惣右衛門の次男として生まれる。初名は八十八・三郎・内記、のちに改名して東作。字は子暘。号は初め東嶼、のちに翠雨、さらに改め鳴鶴。晩年には野鶴・老鶴・鶴叟。
 22歳の時に同じ彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子となる。しかし1860年、藩主井伊直弼が桜田門外で暗殺されたため、禄は大幅に減り生活は困窮し、上京して書道に専念する決意をした。
 維新後、新政府が成立すると徴用され太政官に勤める。内閣大書記官となるが、当時仕えていた大久保利通が暗殺されたことを機に退官、書道に専念する。
 初めは卷菱湖の風を習うも、貫名ッ翁に私淑し、楊守敬の来朝に遇い、その後5年間、松田雪柯・巌谷一六とともに南北朝時代の北朝の碑の拓本によって北朝の書法を学んだ。54歳のとき清国に行き愈曲園・呉大徴・楊見山・呉昌碩らと交遊して書学を探求した。
 鳴鶴は、隷書は〈西狭頌〉、楷書は鄭道昭、草書は〈書譜〉などを主として漢・魏・晋・唐の書法を究めて一家を成した。門下から渡辺沙鴎・黒崎研堂・近藤雪竹・井原雲涯・丹羽海鶴・山本竟山・比田井天来・川谷横雲などのすぐれた弟子が輩出した。
 「鳴鶴仙史書」の下に、5.4p角白文の「東作字曰子陽」、同朱文の「翠雨山房」の落款印が押されている。

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http://mati21.biwako.shiga-u.ac.jp/kindaikaisan/2-4.htm
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http://www.city.tochio.niigata.jp/bunka/bijyutukan/sy-kusakabe.html


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