第5巻 第22章-3 藤原楚水著 省心書房131 林則徐 乾隆50年7月26日(1785年8月30日)-道光30年10月19日(1850年11月22日) 游華山詩(軸(中国-1))
字は元撫・少穆、号は竢村老人。諡は文忠。福建省閩侯県(福州市鼓楼区中山路19号)の人。
アヘン厳禁論を主張し、道光帝に認められ、欽差大臣としてアヘン没収や輸入禁止を断行した。これに対する制裁としてイギリスはアヘン戦争を引き起こした。アヘン戦争を招来したと責を問われ左遷された。
のちに復帰。50年太平天国討伐を命じられ、赴任途中に病死。
132 張祥河 乾隆50年(1785)-同治元年正月(1862)
字は元卿、詩舲・鶴在・法華山人と号した。諡は温和。江蘇松江府婁縣(上海市)の人。詩書を工にし、尤も画山水、花卉を善くした。
133 朱駿声 乾隆53年(1788)-咸豊8年(1858)
字は豊芭、允倩と号した。江蘇呉縣の人。揚州府の教授。
134 方履籤
字は彦聞、嘉慶の挙人。詩詞及び駢体文を工にし、隷書を善くし、鑑賞に精であった。
135 銭泰吉 乾隆48年(1783)-道光30年(1850)
銭泰吉は輔宜といい、警石と号した。銭儀吉の従弟で、古書を好み、人に善本を借りて校勘数過した。古文を儀吉に学び、時に嘉興の二石と称した。
136呉熈載 嘉慶4年(1799)-同治9年(1870)
揚州府儀徴県(江蘇省)の人。もとの名は廷颺、字は熙載だったが53歳以後は熙載を名とし字を譲之とした。さらに64歳のとき同治帝・載淳の即位(1862)によって、皇帝の諱の載淳に載の字が使われていたため、敬避し、熙載を改めて譲之を名前とした。
他にも言菴、方竹丈人、晩学居士などの雅号がある。また彼が師事した包世臣の字が慎伯であるのにちなんで堂号を師慎軒といった。
包世臣に従って学び、各体書を善くし、鄲氏の衣鉢を伝えて鉄筆を工にし、余事花卉を作り、また高雅にして士気あり。その特色ある画風は、後の趙之謙・呉昌碩の先駆を為せるものと称せられる。
137 何紹基 嘉慶4年(1799)-同治12年(1873) 顧セン士墓誌(軸(中国-1))
字は子貞、号は東洲、晩号は蝯叟。湖南省永州府道州(湖南省)の人。翰林院編修となり説文、金石学に造詣が深かった。書は初め顔真卿を学び、のちに包世臣と交わり、また阮元の弟子となり、北碑や漢碑に傾倒して碑学を修め、新様式を完成した。道光期における北派の第一人者と言える。彼はまた小学に詳しく、詩人としても名高く、蘭竹、山水を描いた。行・草書は特異な趣を示す。
138 李佐賢 嘉慶12年(1807)-光緒2年(1876)
字は仲敏、竹朋と号した。山東利津県左家莊の人。弱冠より好んで金石書画を収蔵し、古泉涯を成した。
139 呉式芬 嘉慶元年(1796)-咸豊6年(1856)
字は子芯、誦孫と号した。山東海豐(山東省浜州市無棣県)の人。金石文字を酷嗜し、青銅器の収集、鑑識と金文解読に卓越していた。
140 潘曾瑩 嘉慶13年(1808)-光緒4年(1878)
字は申甫・星斎といった。江蘇省呉県(江蘇省蘇州)の人。
史学に長じ、書画を善くし、その画は青藤・白陽を、書は初めは趙呉興を学び、晩には米襄陽を学び、その神髄を得た。
141 馮桂芬 嘉慶14年(1809)-同治13年(1874) 馮桂芬(軸(中国-1))
字は林一。号は景亭、晩号はケ尉山人。江蘇省蘇州府呉縣木瀆鎮(蘇州市呉中区)の人。
林則徐の知遇を受け、経世に通じ、郷里の実務にたずさわった。李鴻章の幕友として同治中興にも参加し、近代的富国強兵策を主張した。魏源に次ぐ洋務論の開拓者。
142 劉喜海 乾隆58年(1793)-咸豐2年(1852)
字は燕庭・燕亭・吉甫、山東諸城(山東省濰坊市)の人。金石碑刻の款識を嗜み、自ら金石文字50余通をあつめて金石苑を撰し、また古泉4600有奇を撰して古泉苑を成した。
143 陳澄
字は蘭甫、道光の挙人で、耋籍に汎濫し、天文・地理・楽律・算数・古文・駢体・篆籀・真行書等研究しないものはなく、学海堂及び菊坡精舎に主講となった。
144 鮑康 嘉慶15年(1810)-光緒7年(1881)
字は子年、觀古閣主人とと号した。安徽歙県(安徽省黄山市)の人。日頃より泉幣を僻嗜し、李佐賢が古泉涯を撰するとこれを襄助した。著に、泉説・続泉説がある。
145 莫友芝 嘉慶16年5月3日(1811年6月24日)-同治10年9月14日(1871年10月27日) 莫友之(軸(中国-1))
字は子偲、号は郘亭・紫泉・眲叟。プイ族(布依族)。
語学に通じ、また蔵書家として知られ、太平天国の乱で散逸した揚州の文匯閣と鎮江の文宗閣の四庫全書の収集に尽力した。
書もよくし、詩は宋詩を宗とした。
146 曽国藩 嘉慶16年10月11日(1811年11月26日)-同治11年2月4日(1872年3月12日)
字は伯函、号は滌生、諡は文正。湖南省湘郷県(双峰県)の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。
147 呉雲 嘉慶16年(1811)-光緒9年(1883)
字は少甫、号は平斎・両罍軒・二百蘭亭斎、愉庭等の晩号もある。浙江省湖州府の人。
古文物の蒐集家でもあり、号名もこの収集品にちなむものが多く、前述した二百蘭亭斎は王羲之の書いた蘭亭序を200本所持したことから付けられたと言われている。
何紹基とも親交があり、書においては何紹基や顔真卿を研究し、行書と楷書の作品を多く残した。
148 劉熈載
字は伯簡、融斎と号した。江蘇興化の人。その学、漢宋の門戸なく、子・史・天文・算法・字学・韻学と、精通しないものはなかった。書道については芸概があり、言うところ極めて適切である。
149 楊沂孫 嘉慶18年(1813)-光緒7年(1881)
字は泳春、号は子輿、晩号は豪叟。父の死後に観濠居士と号した。江蘇省蘇州府常熟県(江蘇省)出身。
書は最初はケ石如の影響を受けていたが、後に金文・石鼓文・漢碑・篆書や唐の李陽冰の要素を吸収し、独自の書風を確立し、呉大澂と並び称された。
150 陳介祺 嘉慶18年(1813)-光緒10年(1884) 華岳題名記(碑林碑石目録)
字は寿卿・酉生、号は伯潜。山東省濰県の人。
古銅器鑑別の第一人者。潘祖蔭、呉大澂らと交流し、南潘北陳と称された。
151 汪鋆 嘉慶21年(1816)-?
字は硯山・汪度、十二硯斎と号した。江蘇儀徴の人。詩に巧みで、書は金石を学び画は山水・花卉に秀でた。
152 楊峴 嘉慶24年(1819)-光緒22年(1896) 楊ケン(軸(中国-1))
字は見山、庸斎・藐翁・遅鴻残叟などと号した。帰安(浙江省)の人。官は江蘇省松江府知事にいたった。漢隷に詳しく特に礼器碑を学び、清代の北碑派に新しい書風を開いた。著書に庸斎文集・遅鴻軒誌鈔がある。
153 兪樾 道光30年12月2日(1821年12月25日)-光緒32年12月23日(1907年2月5日) 兪エツ(軸(中国-1))
字は蔭甫、号は曲園、堂号は春在堂。浙江省湖州府徳清県の人。
清末考証学の大家で、王念孫の学を継ぎ、易学から小説に至るまで、数多くの著述がある。門人に章炳麟・呉昌碩・楢原陳政がいる。
154 張裕サ 道光3年(1823)-光緒20年(1894)
字は廉卿、号は濂亭。湖北省武昌府武昌県竜塘出身。
曽国藩の幕府に入り、黎庶昌・薛福成・呉汝綸とともに曽門四弟子と称された。
書法を北魏の張猛龍碑・弔比干文、東魏の凝禅寺三級浮図碑、隋の淳于倹墓誌に学んだ。日本人の弟子に宮島詠士がいる。
155 趙之謙 道光9年(1829年7月9日)-光緒10年(1884年10月1日)
字は初め益甫、後にヒ叔。号は冷君・悲盦・梅庵・盦寮・无悶など。浙江省紹興府会稽県の人。
書ははじめ顔真卿を学んだが、北京に上って金石学を学び、北魏書と呼ばれる楷書・行書を創始。画は徐渭に私淑、花卉画をよくした。また篆刻で著名。その作風は、近代感覚にあふれ、質実剛健ながら、感情を盛り込んだ画境を切り開いた。近代芸術家の呉昌碩・斉白石をはじめ後世に大きな影響を与えた。
156 潘祖蔭 道光10年(1830)-光緒16年(1890) 潘祖蔭(軸(中国-1))
字は伯寅、鄭墉と号した。諡は文勤。江蘇省呉県(蘇州市)の人。
書物や金石碑文の収蔵家であり、目利きとして広く名を知られ、潘神眼と称された。
金石を好んで収蔵し、そのコレクションは陳介祺と並んで称された。
157 翁同龢 道光10年(1830)-光緒30年(1904) 翁同和(扇面)
字は叔平・声甫・笙甫といい、晩年は瓶生・瓶盧・松禅老人と号した。江蘇省蘇州府常熟県の人。
書をよくし、初め欧陽詢、褚遂良を学び中年には顔真郷を、更に50代以降は荘の蘇軾、米芾を研究したが、その肉太の書風は顔真郷に負う処が多いと思われる。
詩や文に長け、翁同龢日記・瓶廬詩文稿などを著している。
158 陸増祥
字は魁仲、星農と号した。江蘇太倉の人。少にして六書に通じ、好学博覧で、特に金石文字に精であり、その著
の八瓊室金石補正は王昶の金石萃編を補正したもので、書道金石の研究にはかくべからざるものである。
159 陸心源 道光14年(1834)-光緒20年(1894)
字は剛甫・剛父、存斎と号した。晩号は潜園老人。湖州府帰安県(現浙江省湖州市)の人。
地方官を歴任ののち郷里に隠退し、古今の図書を収集校補した。その蔵書数は善本のみで 15万巻に上るが、のち日本の岩崎家に購入され、現在、東京世田谷の静嘉堂文庫に収められている。
160 李文田 道光14年(1834)-光緒21年(1895)
字は畬光、若農・芍農・薬農と号した。諡は文誠。広東省広州府順徳県の人。
好学で天文・地理など通暁しない学問はなかった。篆書・隷書も得意とし、俸禄の大部分を古籍と碑帖の購入にあてた。蘭亭序は王羲之の書ではないと論じて、物議をかもしたこともあり、また元朝秘史に注を付けたことでも知られる。
161 呉大澂 道光15年(1835)-光緒28年(1902).1.27.
本来の名は大淳だが、のちに清の同治帝の名の載淳を避諱して大澂に改めた。字は止敬・清卿、恒軒・愙斎と号した。江蘇省呉県(江蘇省蘇州)の人。
書は若い時に陳碩甫に篆書を学び、李陽冰に書法が酷似していた。その後楊沂孫の影響を受け、金文と小篆を結合させ、一家をなした。画は山水・花卉を善くした。また刻印に長じ、金石を収蔵してその鑑別にも精通した。
162 張之洞 道光17年(1837).9.2.-宣統元年(1909).10.4.
字は孝達、号は香濤・香巌・壺公・無競居士・抱冰。直隷(河北)省南皮の人。
軍事中心の近代化を積極的に推進した洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩・李鴻章・左宗棠とならんで四大名臣とも称される。
163 楊守敬 道光19年4月15日(1839年5月27日)-民国4年(1915年1月9日) 楊守敬(扇面)
字は惺吾、晩年に鄰蘇老人と号した。湖北省荊州府宜都県陸城の人。
金石学に通じていたが、光緒6年(1880)駐日公使の何如璋の随員となって来日した。日本では中国国内ですでに逸文となっていた古典籍(佚存書)を収集した。日本の古典籍も収集していて、中でも将門記の真福寺本とは別系統の写本から書写された楊守敬旧蔵本が知られている。
4年間の在日中は、日下部鳴鶴や巌谷一六、中林梧竹などの能書家とも親交があり、六朝碑学を広めた。
帰国後は隣蘇園を築き、多くの蔵書を所有した。
欧陽詢の書風を受け継いだ能書家としても知られ、執筆法は張照の帖派流による帖と碑を混成した書風で、楷書・行書・草書・篆書・隷書の各体にすぐれた。
164 呉俊卿 道光24年(1844)8月1日-民国16年11月29日(1927.11.3)
もとの名は俊、のちに俊卿、字をはじめ香圃。1912年(民国元年)、69歳から昌碩とする。別字に蒼石・倉石・倉碩。号に缶廬・苦鉄・破荷・大聾・老蒼・石尊者・石人子・石敢当・破荷亭長・蕪青亭長・五湖印丐など。浙江省孝豊県彰吾村(安吉県)に生まれる。
生涯を通じて篆刻の研究に力を注ぎ、この分野の重要な手引書を多数著した。浙派とユ派(安徽派)に篆刻を学び、秦・漢代の石刻の影響を受けた。のちに呉風と呼ばれる独自の作風は、伝統的な書の技法と、洗練された芸術性と力強さの融合から生まれたものである。
書は石鼓文を学んで独自の篆法を樹立し、その骨法を行草にも画にも貫き、画は濃彩の花卉を得意とし、篆刻は磊落な風を誇った。その書画篆刻は清末第一の評があり、日本にも愛好者が多く、現代書道に与えた影響はきわめて大なるものがあった。
民国2年(1913)に上海に居を落ち着け、成立大会により正式に結社された西泠印社の初代社長に推挙されるなど、多数の地方芸術団体に精力的に参画した。
呉の芸術は日本でも高く評価され、作品が広く収集された。
著作には、書画集の苦鉄砕金、缶廬近墨、印譜の削觚廬印存、缶廬印存、詩集の缶廬集などがある。
清游六言聯(42歳) |
水逮七言聯 |
槐廬先生録小戒詩四屏(47歳) |
臨石鼓文軸(50歳頃) |
臨散氏盤軸 |
出得八言聯(54歳) |
四言聯 |
公是八言聯 |
朝陽七言聯 |
近作詩軸 |
飲六三園和笙詩軸(74歳) |
臨石鼓文軸(76歳) |
七絶軸(76歳) |
集獵碣文字七言聯(77歳) |
蘆臺秋望七絶軸(80歳) |
165 繆葢孫 道光24年(1844)9月20日-民国8年(1919)12月22日
字は菼之または筱珊、晩に芸風老人と号した。江蘇江陰の人。
少にして羣籍に渉り、尤も考拠に長じ、訓詁に通じ、金石目録の学に精であった。目録学・金石学の大家であり、中国における図書館学の先鞭をつけた。
張之洞の幕友となり、書目答問の編集に深く関わった。
166 王懿栄 道光25年(1845)-光緒26年(1900)
字は正孺、号は廉生。山東省登州府福山県の人。
1898年、薬店で竜骨を買い求めたところ、文字が書かれているのを発見した。食客の劉鶚と研究した結果、これは古代中国の文字、すなわち亀甲獣骨文字であり、時代は殷のものと確定させた。
1900年、義和団事変の際に団練大臣に任じられたが、8ヵ国連合軍の北京侵入にあたり、服毒のうえ、井戸に投身して自殺した。
煙台市福山区に王懿栄紀念館がある。
167 葉昌熾 道光29年(1849)-中華民国6年(1917)
字は鞠裳・鞠裳、緣督・緣督廬主人と号した。江蘇長洲(江蘇省蘇州)の人、
宣統元年(1909)、語石十巻を成した。この書は中国に於ける金石書の最も系統的なもので、古代石刻学の集大成であり近代石刻学の先駆でもある。
168 孫詒譲 道光28年(1848)-光緒34年(1908)
字は仲容、号は籀廎。浙江省温州府瑞安県の人。
兪樾に師事し、戴望らと親しく交わって、経書をはじめ史書、金石文、のちには甲骨文まで研究した。
主要著作に周禮正義・墨子輭詁等がある。
169 沈曽植 道光30年(1850)-1922(1922)11月20日
字は子培、号は巽斎・乙盦、晩号は寐叟。浙江省嘉興府嘉興県の人。
儒学・遼金元史・法律学・音韻学・地理学・仏教学に精通し、能書家としても知られていた。
170 劉鶚 咸豊7年(1857)10月18日-宣統元年(1909)8月23日
字は鉄雲。ペンネームは洪都百煉生。
江蘇省江寧府六合県(江蘇省南京市)生まれで、淮安府山陽県(淮安市淮安区)で育った。
甲骨の収集で知られ、鉄雲蔵亀(1903)の著があり、甲骨文研究の端緒をつくった。
171 康有為 咸豊8年(1858)3月19日-中華民国16年(1927)3月31日 康有為 (軸(中国-1))
字は広厦、号は長素、のちに更生(更甡)と称した。出身地から康南海とも呼ばれる。広東南海(仏山市南海区)の人。
列強の中国侵略に対して危機感を強め、政体改革、富国強兵、人材登用の策を進言。光緒帝の信任を受け変法自強策を唱えたが、西太后を中心とする保守派のクーデターにあい、100日で失脚して梁啓超とともに日本に亡命。孫文らの革命派と対立した。辛亥革命後は上海にあって孔教会を結成し、孔子の教えによる秩序の回復を主張したり清朝の再興をはかるなど、時代から落伍した保守派の巨頭となり、やがて失意のうちに死去した。
彼の学書は王羲之・趙孟頫・孫過庭や淳化閣帖など、純然たる帖学書法によって出発した。しかし、北碑の筆法を悟り、秦・漢の篆隷の神髄を融合する書を理想とするようになった。そして包世臣の芸舟双楫を補強し、碑学派の立場から書かれた中国書道史論である広芸舟双楫を著した。
なお、台湾でお世話になった陶寿伯先生(陶壽伯)の話では、陶先生が書作をするとその作品に康有為が自分の名前を書き、自印を押して持ち帰ったという。日本に康有為書と伝わっているものは大半がこの手のものだそうだ。
172 端方 咸豊11年(1861)-宣統3年(1911)
字は午橋、号は陶斎。満州正白旗の人。托忒克氏(totek hala、トテク氏)。
金石学に精しく、頗る収蔵に富み、多くの古器・法帖の類を貯え、飼斎吉金録・旬斎蔵石記等を著わした。
173 羅振玉 同治5年(1866)6月28日-中華民国29年(1940) 羅振玉(軸(中国-2))
一 羅振玉の経歴および人物
字は叔言。号は雪堂、貞松老人。初め農学の改良、教育制度の改善と西洋新知識の導入に尽力。宣統1 (1909) 年京師大学堂農科大学監督に就任。
辛亥革命にあって日本に亡命、京都に住んだ。帰国して天津に居住し、宣統帝の師傅としてその教育にあたったが、満州国成立とともに参議、監察院長などの要職を歴任。
金石学、考証学の第一人者として知られ、殷墟出土の甲骨文字に最初に注目し、その研究書殷墟書契考釈などがある。また敦煌発見の文書の研究も行い、敦煌学の基礎を築いたほか、明・清檔案の保存整理にも力を尽した。
二 羅振玉の主なる著述
羅氏は著述せるもの極めて多く、その書道界に貢献せし功績は甚だ偉大。
特にあげれば、殷虚書契・殷虚書契考釈・殷虚書契菁華・流沙墜簡(王国維共著)等がある。
174 梁啓超 同治12年(1873)-中華民国18年(1929)
字は卓如、号は任公・飲冰室主人など。さらに中国之新民など多数のペンネームをもつ。広東省新会県(広東省江門市新会区郊外)に生まれる。
康有為に師事し、変法自彊運動に参加したが、失敗して日本に亡命。
日本では西欧近代思想を紹介し,中国人の自覚を主張し、青年知識人に大きな影響を与えた。孫文に接近したこともあるが、基本的には清朝の立憲君主制的改革を唱え、中国内地の立憲運動を指導した。
辛亥革命後、帰国して立憲党を基盤に進歩党を組織。司法総長などを歴任。清代学術概論のほか、おもな論文は飲冰室合集・飲冰室文集に収録されている。
175 王国維 光緒3年(1877)12月3日-中華民国16年(1927)6月2日
字は静安または伯隅、号は観堂。諡は忠愨。浙江省杭州府海寧州の出身。
光緒24年(1898)上海に出て羅振玉に認められ,光緒27年(1901)日本に留学したが,病気で翌年帰国。辛亥革命の際,羅振玉と日本に亡命して京都に住み,考証学の手法で経・史の研究に専念。甲骨金石文の研究,解読で画期的業績をあげた。
1916年帰国し,教職についたが,身辺上の問題,精神上の行きづまりもからんで,清王朝の滅亡に殉じるように昆明池に投身自殺した。
近代的な中国学の開拓者(国学大師)の一人で、甲骨文字研究の開拓者でもあり、羅振玉・董作賓・郭沫若とともに甲骨四堂と称される。
著書に人間詞話・宋元戯曲史などがある。
集帖は、複数の書人の名跡を集めて石や木などに刻した法帖のこと。単帖(一つの作品を刻した法帖)や専帖(一人だけの筆跡を集めた法帖)に対していう。
1 三希堂法帖 全32冊
乾隆12年(1747)に梁詩正らが勅命を奉じて内府秘蔵の書跡を集刻したもの。
正式には三希堂石渠宝笈法帖は、乾隆12年(1747)に乾隆帝の勅命を奉じて梁詩正らが魏の鍾繇から明の董其昌に至る歴代名人の筆跡を刻した。その原石は495石に上る。精刻であり、紙墨ともによい。続帖として、墨妙軒帖がある。 三希堂とは紫禁城の養心殿内にある建物の号で、乾隆帝が命名した。その由来は、乾隆帝が王羲之の快雪時晴帖、王献之の中秋帖、王cの伯遠帖の3帖を得て、これを希世の珍宝としてその室中に蔵したことによる。
2 秋碧堂帖 8巻
収蔵家の梁清標(1620-1691)が自身の蔵する陸機平復帖から趙孟頫洛神賦までの真跡を、金陵の尤永福(天錫)に摹刻させたもので、清朝に入って最も早く世にあらわれた。内容の良さと精刻をもって著名であり、特に平復帖と張金界奴本蘭亭序があるので名高い。刊行年は不詳。
3 墨妙軒帖 4巻
乾隆帝は三希堂帖を摹刻させた後、乾隆19年(1754)更にまた三希堂帖の続きとして褚遂良から趙孟頫に至る30余種を摹刻した。この法帖は上海に石印本があるがその標題を改めて三希堂続帖とし、また一石印本は五巻としているが、皆この帖のことである。
4 経訓堂法帖 12巻
乾隆年間に畢況がその所蔵の墨蹟から摹勒上石したもので、刻者は銭泳であったと思われる。この法帖の刻は精善で、懐素の草書千字文の真蹟本とを対照しても少しの違いもない。
5 擬山園帖 10巻
この法帖は王鐸一人の書を順治16年(1659)に集刻したもの。王鐸は生涯その草書は二王に刻意
し、行書また集王書聖教序に拈香し、中年以後は米元章を加味したと見
られる。擬山園帖は王鐸の晩年に近いものであるが、
この法帖は王鐸が清の順治8年(1651)に着手はしたが、翌年死去した。その後、子の王無咎が更に遺墨を整理編次して順治16年(1659)に法帖にしたもの。内容は『淳化閣帖』の臨書が多い。
6 蘭亭八柱帖 8巻
これもまた乾隆中の勅刻。分って8巻とし、前4巻は古名跡で、刻も極めてよいが、後4巻は唯だ数を揃えるというまでのことで、書としても精彩がない。
7 詒晉斎帖 4集16巻
成親王は乾隆帝の第11子で書を善くし、成邸の書法は宗室及び満人の冠と称せられた。かつて晉の陸機の平復帖を得てその斎に名ずけて詒晉斎といった。詒晉斎帖は成親王が嘉慶年間、その所蔵の名蹟及び自書の臨本を出して刻成したもので、刻者は経訓堂帖を刻した銭梅溪である。
| 刊行年 | 名称 | 巻数 | 作者 |
| 1630年以後 | 渤海蔵真帖 | 8 | 陳瓛 |
| 1641年以後 | 快雪堂法書 | 5 | 馮銓 |
| 1672年 | 職思堂帖 | 8 | 江湄 |
| 1675年 | 翰香館法書 | 10 | 劉鴻臚 |
| 不詳 | 秋碧堂帖 | 8 | 梁清標 |
| 不詳 | 聴雨楼帖 | 4 | 周於礼 |
| 1747年 | 三希堂法帖 | 32 | 乾隆帝 |
| 1754年 | 墨妙軒帖 | 4 | |
| 1790年頃 | 経訓堂帖 | 12 | 畢沅 |
| 1830年 | 筠清館帖 | 6 | 呉栄光 |
| 1892年 | 鄰蘇園帖 | 12 | 楊守敬 |
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