馮桂芬 ふう・けいふん

南山高岡策我文徳
 南山の高岡は我が文徳を策し
龍門砥柱以通福助
 龍門の砥柱は福功に通ず
29.5p×161p聨

嘉慶14年(1809)生〜同治13年(1874)歿
制作年  不明
 字を林一といい、猿甫・景事・猿隻と号した。江蘇省呉県の人。道光20年(1840)の進士に及第した。はじめ翰林院編修に任ぜられた。咸豊元年(1851)、父の喪に服すため帰郷したが、おりしも太平天国軍が蘇州に迫ったため、団練を組織して対抗した。咸豊6年(1856)、右巻坊右中允となった。咸豊10年(1860)、蘇州が陥落すると上海に逃れ、在留外国人や曾国藩らと連絡を取って、上海防衛に奔走した。同治2年(1863)、蘇州が回復されると、蘇州・揚州などで講学し、また李鴻章の下で洋務運動の推進に尽力した。
 書は、歐陽詢を法とし、兼ねて篆書・隷書を工にし、書を求めるものが絶えなかったという。著に『校邠廬抗議』『顕志堂稿』などがある。


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