楊峴 よう・けん
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23.5p×128p聨 |
嘉慶24年(1819)生〜光緒22年(1896)歿 製作年 不明 |
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名は顯、字を庸斎・季仇といい、庸齋・見山・藐翁・遅鴻残叟と号した。浙江省帰安の人。咸豊5年(1855)の挙人で、浙江転運の功により知府の銜を得、常州・松江の府事を経て致仕。 33歳で初めて八分隷を習い、隷書に精研し、漢碑をあまねく渉猟した。落筆神明な線の微動によって変化に富む隷書を書き一家を成した特異な作家である。日本では現在も使用されている読売新聞の題字を書いたことで知られる。弟子に呉昌碩がいる。 また詩文を書くし、多くの著書がある。楊守敬は、「見山は禮器銘の神髄を得て行書も佳であった」と述べている。八分隷に新境地を拓き、清末第一の称を得た。 この作品は、楊守敬の言うところの禮器ではなく、曹全の風で書かれたもので、別の味わいがある。 |