第5巻 第22章-2 藤原楚水著 省心書房45 丁敬 康熙34年(1695)-乾隆30年(1765)
字は敬身、号は鈍丁・硯林・硯叟・玩茶叟・龍泓外史など。杭州府銭塘県(浙江省銭塘)の人。家は貧しく、酒屋を生業とした。若いうちから書籍を好み収集する。深く鑑賞し書画の鑑別家として著名となった。広く学問を修養して博学鴻詞科に推薦されたがこれを辞退。生涯、仕官することなく布衣として過ごした。
丁敬は、明代の蘇宣や何震に影響を受けつつ、漢印復古を提唱し、生気に満ちた篆刻を復活させた。丁敬の作風は、浙派の典型を形成し、西泠印派(浙派)の祖として尊ばれている。丁敬・蔣仁・黄易・奚岡を西泠四家と呼ばれており、丁敬・蔣仁・黄易・奚岡・陳豫鍾・陳鴻寿・趙之琛・銭松を西泠八家と呼ばれる。
46 梁詩正 康熙36年(1697)-乾隆28年(1763)
字は養仲、藏林と号した。浙江銭塘の人。雍正8年(1730)の進士で、官は東閣大学士に至り、卒して太傅を贈られ、文荘と諡せられた。
47 呉玉搢
山夫と号し、江蘇省山陽の人。幼より好んで古字を弁識し、やや長じて六書に究心し、旁ら金石彝器に及び、説文引経考・金石存を著わした。
48 牛運震 康熙45年(1706)-乾隆23年(1758)
字は階平、真谷と号し、空山先生呼ばれた。山東滋陽馬青(兗州市新兗鎮牛樓村)の人。金石を好み、経術に明かで、文章を工にし、書道関係の著には金石図がある。
49 袁枚 康熙55年3月2日(1716年3月25日)-嘉慶2年11月17日(1798年1月3日)
字は子才。号は簡斎、随園老人。杭州府銭塘県の出身。本貫は寧波府慈谿県。
詩は真情の発露を重んじる性霊説を唱えて、格律を重んじる宮廷派の沈徳潜と詩壇を二分し、文は古文、駢文ともにすぐれ、紀石雲とともに南袁北紀と称せられた。
50 盧文弨 康熙56年(1717)-乾隆60年(1795)
字を召弓(または紹弓)、磯魚、抱経と号した。原籍は紹興府余姚県だが、先祖のときに杭州府仁和県に移住した。乾隆の進士で、体仁閣大学士となり宰相に至った。
戴震・段玉裁と交流を持って、多くの書籍を収集・校勘・出版で知られる。
51 劉塘 康煕58年(1719)-嘉慶9年(1804)
一 劉塘の経歴および人物
東閣大学士劉統勲の長子。名は墉、字は崇如、号は石庵。別号に木庵・青原等。山東省諸城の人。
乾隆16年(1751)進士に合格。翌年翰林院に入り、嘉慶2年(1797)体仁閣大学士を経て宰相となった。
経・史・諸子百家に通じ、詩文をよくし、とりわけ書法を得意とした。
二 劉塘の書の出自とその評価
初め家風を受けて趙子昂を学んだが、のち蘇軾、董其昌を、晩年には北朝の碑版に心を寄せ、一家をなした。とくに小楷に優れ行草にも長じ、豊麗で気骨を内蔵し、高雅な情趣をたたえた独特の書風で珍重された。好んで濃墨を用いて重厚さを出したため、濃墨宰相の称があり、帖学派の雄と仰がれる。
三 劉塘の書蹟とその書品
劉石菴の書については、その妙を称せるものが頗る多く、枚挙に遑がない。
52 江声 康熙60年(1721)-嘉慶4年(1799)
字は鯨濤・叔澐。号は艮庭。蘇州府元和県(江蘇呉県)の出身。尚書集注音疏を著わし、疑偽古文の学を集大成した。
53 梁国治 雍正元年(1723)- 乾隆52年(1787)
字は堦平、瑤峰と号し、別にまた豊山とも号した。乾隆13年(1748)の一甲第一人及第で、官は東閣大学士に至り、文定と諡せられた。書法は深く唐人の精詣を得たりと称せられた。
54 梁同書 雍正元年(1723)-嘉慶20年(1815)
一 梁同書小伝
字は元穎、号は山舟。浙江省銭塘の人。東閣大学士梁詩正の長子。
二 梁同書の官歴および人物
乾隆17年(1752) 29歳のときに科挙試験に及第し、35歳から官職に就いたが、間もなくして養父が亡くなったのをきっかけに退官した。
三 梁同書の書学とその書論
書は初め顔真卿、柳公権を学び、ついで米芾、董其昌を習って晩年には一家を成した。あくまでも正確な形に豊かな精神を盛る古典主義に立ち、劉墉や王文治と並んで「劉・梁・王」と称賛され、嘉慶期帖学派の第一人者と称される。
また詩をよくし、書学、鑑賞にもくわしく、頻羅庵論書・頻羅庵遺集などの著がある。
55 戴震 雍正2元年12月24日(1724年1月19日)-乾隆42年5月27日(1777年7月1日)
考証学の確立者。字は慎修、東原。徽州府休寧県隆阜(安徽省黄山市屯渓区)の人。
江永に学び、考工記図・屈原賦注などを著わして、恵棟、紀ホ、秦專cらの諸学者に認められて、四庫全書纂修官、翰林院庶吉士となる。
経書の客観的研究法の淹博、識断、精審を提唱し、校勘、文字、音声、制度、地理、暦法などの考証の補助学を重視して、考証学の方法を確立し、また王念孫、段玉裁らに教えて、いわゆる皖派の中心的学者となった。
56 王昶 雍正2年(1724)-嘉慶11年(1806)
字は徳甫、述庵と号し、蘭泉先生と呼ばれた。江蘇省青浦県の人。乾隆19年(1754)、18歳で進士に及第、刑部郎中となり、一時罪によって免職されたが軍功によって復官し、陝西、雲南、江西3省の布政使などを務めた。乾隆 59年退官、居所を春融堂と名づけて自適、著述にあたった。大清一統志・続三通などの書の編纂に参加、金石の学を好み、また詩文ともにすぐれ、詩は杜甫、韓愈、陸游、詞は姜夔、文は韓愈を宗とした。ほかに随筆、地誌など著作が多い。
57 程瑤田 雍正3年(1725)-嘉慶19年(1814)
字は易田、または易疇。号は譲堂。徽州府歙県(安徽省歙県)の人。
乾隆35年(1770)に挙人となり、嘉定県の教諭を拝命、嘉慶元年(1796)孝廉方正に挙げられた。
江永や戴震を師とし、漢学と宋学をかねて研究し、経学をはじめ古典の造詣が深い。篆刻と詩作を得意とする。
58 孔継涑
字は信夫、体実、号は谷園、別号は葭谷居士で、曲阜の人。孔子の六十八代目の子孫。乾隆23年(1758)の挙人で、候補中書に官した。
59 銭大听とその一族
一 銭大听 雍正6年1月7日(1728年2月16日)-嘉慶9年10月20日(1804年11月21日)
字は暁徴、辛楯と号し、晩年は竹汀居士・潜研老人と号した。太倉州嘉定県(江蘇省嘉定)の人。乾隆16年(1751)の挙人で、内閣中書を授かり、19年の進士で庶吉士に改められ、翰林院編修を授かり、広東学政提督等に官したが、翌年父の死にあい、その喪を機に官吏生活をやめた。余生を江寧の鐘山書院、蘇州の紫陽書院などの院長をして教育にあたりつつ読書、著述に過した。史学に詳しく、史記から元史までの歴代正史に校定を加えた二十二史攷異 (100巻) を著わした。音韻学上にも新説を出し、また学問上の考証を記した十駕斎養新録、金石文を研究した金石文跋尾、古典に散見する俗語類を集めて考証した恒言録など、清朝考証学の代表的著作が多い。詩文にも長じ若い頃沈徳潜に学んで王鳴盛、王昶らと呉中七子と称された。
二 主なる一族の書家とその書蹟
1 銭大昭
字を竹廬といい、大听の弟。嘉慶の初めに孝廉方正に挙げられた。文字の学に精しく、栄利に汲々たらず、読書の所に顔して可廬といった。その著に詩古訓、爾雅釈文補、広雅疏義、説文統釈等がある。
2 銭塘
字を学淵といい、漑亭と号した。乾隆34年(1769)江南の郷試に挙げられ、明年進士となり官、知県を得べきであったが、自ら吏事に習わざるを以って教職に就かんことを請い江寧府学の教授を授かった。そして教務に暇多きを以って専ら撰述に精励し、律呂古義、史記三書釈擬、淮南天文訓、述古録等を著した。
3 銭坫 乾隆6年(1741)-嘉慶11年(1806) 銭坫(軸(中国-1))
字を献之といい、十蘭と号した。大听の従子で、乾州の州判に官し、嘉慶11年(1806)に年63を以って卒した。篆書を工にした。著に篆師録、爾雅釈地、十経文字通正書、説文解字斟詮、漢書地理志集釈、古器款識、鏡銘集録等がある。
4 銭東垣
字を既勤といい、亦軒と号した。大昭の子。嘉慶3年(1798)の挙人で、浙江の松陽県に知県となり、ついで上虞に調され道光4年(1824)任に終った。家学を承けて著述を好み、述作するところが多く、書道に関するものには青華閣帖攷異がある。
5 銭繹
可鷹の次子で、字を子楽、小廬と号した。その著に十三経漢学句読、孟子義疏の二書がある。
6銭侗
可廬の季子、字を同人、趙堂と号した。能く叔父竹汀の暦算の学を伝え、竹汀が四史朔閏攷を撰して将に成らんとして卒したをうけ、更に覆ねて編次を加え、之を完成した。金石考証に精しく、また好んで古泉幣を蒐集し、古銭待訪録、銭幣図攷の著がある。
60 畢沅 雍正8年(1730)-嘉慶2年(1797)
字は纕蘅。号は秋帆、経訓堂。晩年は霊巌山人と号した。太倉州鎮洋県(太倉市)の出身。
乾隆25年(1760)の進士で、官は湖広総督にいたった。学問的には、清儒の経典解釈や説文を奉じた。古書の校勘にすぐれ、伝経表、経典弁正など著書多数がある。
61 朱筠 雍正7年(1729)-乾隆46年(1781)
字は美叔。号は竹君・笥河。朱珪の兄。順天府大興県(北京市)の人。乾隆19年(1754)の進士。官は翰林院侍読学士から編修にいたった。四庫全書の纂修に参与。金石学に詳しく、十三経文字同異を著わした。李威・洪亮吉・武億・黄景仁などの弟子がいた。著書に笥河集がある。
62 王文治 雍正8年(1730)-嘉慶7年(1802)
一 王文治小伝
字は禹卿。号は夢楼。江蘇省丹徒県(江蘇省鎮江)の人。乾隆35年(1770)の進士。翰林院編修、侍講を経て雲南省臨安府知府となったが、官僚生活を嫌い江南に帰り、揚州の梅花書院などで自適した。乾隆帝が南巡したときに銭塘の寺廟で彼の書いた石碑を見てほめ、そのため廷臣が再び仕官をすすめたが断り、一生を市井の人として過した。
二 王文治の詩論
退官後は文雅な生活を送った。仏法を信奉し、禅定(仏教において心が動揺しない境地にはいって、徹しきったときの悦び)を悦び、研鑽を怠らず、日々菜食した。天分豊かで、詩は袁枚と並び称された。
三 王文治の書学
書は王羲之、趙子昂を宗として清雅、典麗な風格を誇り、劉墉、梁同書らとともに清代帖学派の大家と仰がれている。
七言聯 |
八言聯 |
五言聯 |
五書聯 |
十一言聯 |
七言聯 |
七言聯 |
七言聯 |
五言聯 |
快雨堂詩草册 |
王文治行書運升周居士八帙仙寿叙 |
宋賢長江万里卷題記 |
快雨堂臨晋書册(洛神賦) |
快雨堂臨二王帖册 |
跋詩六首 |
仍有賸韻復集二首 |
山谷題跋 |
仕女主真蹟詩 |
右軍十七帖 |
集稧帖 |
沈徳潜贈散木句 |
南宮易義 |
七言聯 |
西園雅集図記 |
蓮華経語 |
臨蘇東坡書 |
臨蔡襄書 |
落華詩帖 |
七言聯 |
五絶聯 |
四 王文治の画道
王夢楼は詩や書の外、また画をよくし、尤も梅に菊、竹石等を工にし、墨気泱然たるものがあった。
63 姚鼐 雍正9年(1731)-嘉慶20年(1815)
字は姫伝、号は夢穀・惜抱と号し、晩に惜翁と号した。堂号は惜抱軒で、これにより惜抱先生と呼ばれた。安徽省安慶府桐城県(安徽省銅陵市樅陽県)の出身。
古文学を標榜する桐城派の礎を築き、桐城派文人の巨頭といわれた。また、能書家としての評価も頗る高く、柔軟な書風を能くした。
64 厳長明
字は冬友、道甫と号した。江蘇省江寧の人。
65 翁方綱 雍正11年(1733)-嘉慶23年(1818)
字は正三、覃渓・蘇斎・彝斎また覃谿と号した。順天府大興県(北京市)の人。乾隆17年(1752)、19歳で進士に及第し翰林院に入る。各省の提督・学政を歴任後、内閣学士に就任。 多くの俊英を育て、銭大マ・黄易らと交流する。経学・史学・文学に詳しく、詩論の肌理説を唱道した。
文壇の大御所として君臨し、当時北京に赴いた碑学派のケ石如を排除した。碑文・法帖の考証学的研究で多くの優れた業績を残す。
書はすべての書体に優れ、劉墉・梁同書・王文治らと帖学派の四大家と称揚される。
66 段玉裁
一 段玉裁小伝 雍正13年(1735)-嘉慶20年9月8日(1815年10月10日)
字は若膺。号は懋堂・茂堂。鎮江府金壇(江蘇省金壇県)の人。
乾隆25年(1760)、郷試に及第。貴州・四川方面の県知事を歴任。46歳のときに官を辞して蘇州の楓橋に引退し、以後は自らの専門研究に従事した。
二 段玉裁の学業
初めて都に出たとき、清朝に於ける漢学派(東漢の声音訓詁を以って経書を研究する学派)の基礎を確立した戴震に会い、弟子の礼をとる。
三 戴震と段玉裁・四 段玉裁の文字学とその書蹟
戴震は地理・数学・音韻に長じていたが、段玉裁は特に音韻学においてその薫陶を受け、自らは詩経に見える押韻に着目し、彼独自の方法論で詩経当時の音価を推定して17の韻目に整理していった。そしてその成果が41歳のとき、六書音均表として完成された。
67 桂馥 乾隆2年(1737)-嘉慶10年(1805)
字は東卉、未谷と号し、また蕭然山外史などともいった。山東省曲阜県の人。乾隆55年(1790)の進士で、雲南永平県の知事となり、その在任中に死んだ。
語学、特に後漢の許慎の『説文解字』の研究に専心し、段玉裁と並び「段桂」と称された。主著『説文解字義証』は、その研究の精華であり、特に字義に詳しく、豊富な資料でその用例を明らかにしている。戯曲にも手を染め、明末の徐渭 の四声猿にならった後四声猿雑劇の作がある。ほかに歴代石経略・札樸・晩学集・未谷詩集など
五経 六言聯 |
宋書列伝 孔淳之伝 |
愛客 五言聯 |
語摘立軸 |
無人 五言二句 |
全宋詩 巻794 聯 |
竹林七賢傳 |
妙詩 五言聯 |
易経語 |
春水 八言聯 |
黄庭堅東坡先生真贊 |
第五超宗六言聯 |
脩心 五言聯 |
収百 六言聯 |
奇石 五言聯 |
68 謝啓昆
字は蘊山、号を蘇潭といった。江西南康の人。乾隆25年(1760)の進士で、編修を授かり、嘉慶の時、広西巡撫に累官し、政績甚だ著われたが、後、任に卒した。
詩を工にし、文字金石の学を好み、乾隆60年(1795)に紀伝体により西魏の通史を扱う西魏書を著した。
北魏・東魏・西魏は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。
東魏を継承した北斉にて編纂された正史魏書においては、東魏の孝静帝を北魏の歴代皇帝に加えており、文帝以降の西魏の皇帝については記述が存在しない。西魏の一部の臣下については次の北周の建国の功臣として周書に記載があるケースもあるが、皇帝に関しては、唐の時代に北史が編纂されるまで本紀が書かれることはなかった。これを補うための西魏一代を扱った歴史書が西魏書である。
69 張燕昌 乾隆5年(1740)-嘉慶19年(1814)
字は芭堂といい、文魚・金粟山人と号した。嘉興府海塩県(浙江省海塩)の人。
飛白書に優れた書法をもち、花卉のうちでも特に蘭を得意とした。篆刻は浙派に属す。
70 銭伯垌
銭伯垌は江蘇陽湖の人。字は魯斯、野予・樵陂・僕射山樵ともいった。
国子監生で書を工にし時の重んずるところとなった。
71 銭澄
字は東注・孛を約甫といい、南園と号した。雲南昆明の人。書画を善くし、楷は十三行、霊飛経を彷い、行は争座帖を宗とし、後には力を家廟に肆にした。
72 ケ琰 乾隆8年(1743)-嘉慶10年(1805)
字は石如、号は古浣子・完白山人。嘉慶帝の諱の顒琰を避けるために、字を名前にし、字を頑伯に変えた。
安徽省安慶府懐寧県集賢関(安慶市宜秀区、大観区の境界付近)の人。懐寧県には皖公山があるので、別号として完白山人とも名乗った。
清中期、乾隆から嘉慶にかけて帖学の大成期に新しく興ってきた碑学派の指標となる書家、篆刻家。各書体をよくしたが、特に篆書・隷書に優れていた。
篆書は、はじめ唐の李陽冰を、次いで嶧山刻石・泰山刻石を学んだ。
当時、篆書は筆毛の先端を焼いて書いていたが、ケ石如は軟毛を使って、逆入して中鋒にし、晩年には諸体を融合して深みのある書風を完成した。
隷書は、史晨碑・西嶽華山神廟碑・白石神君碑・張遷碑・曹全碑などを学んだ。
筆意は綿で鉄を包むような筆致と評されていた。その後、枯れた味があって力強い書風へと移行し、晩年には変化自在で、篆書をまじえて円熟味を増した。
楷書は、瘞鶴銘・鄭道昭などを学び、行書・草書は、篆書・隷書の筆意をまじえ、疏密の配置、結構にも工夫をこらした。
ケ石如の書は、正統を守るという態度が一貫している。加えて、書に対する高い見識と自らの気概による趣きがある。
七言律詩軸 |
尺牘 |
朱熹四斎銘六屏 |
大舜舞千戚賛 |
周易 謙掛彖伝 |
崔子玉座右銘 |
長聯 |
開巻 七言聯 |
張子東銘 |
白氏草堂記 |
敖陶孫詩評 |
文語 |
登黄鶴楼詩 |
五言絶句 |
篆書四屏 |
延年益寿幅 |
長慶集冊 |
鄭燮軸 |
荀子 |
思於 五言聯軸 |
謙卦軸 |
四体帖行書 |
不知 七言聯 |
草書五言聯 |
月当 立幅 |
73 蒋仁 乾隆8年(1743)-乾隆60年(1795)
字は山堂、もとの名は泰、字は階平といったが、入手した漢印に「蔣仁」と刻してあったことに因んで改名した。号は山堂・吉羅居士・女牀山民・罨画渓山院主。杭州府仁和県の人。
艮山(浙江杭州城東北にある門の名)の門外にある四阿に住んだ。孤高な性格で人との付き合いが少なく、一度も仕官することなく布衣として過ごした。
書は米芾・王羲之・王献之・孫過庭・顔真卿・楊凝式に学び、その行書・楷書は当代第一と謳われた。また格調高い詩文を詠んだ。
篆刻は丁敬に直接師事した。力強く素朴な風格ある作風だったが、人に渡ることが少なく、作品はあまり伝存していない。
74 黄易 乾隆9年(1744年11月12日)-嘉慶7年(1802年3月26日)
字は大易・小松、号は秋影庵主・小蓬萊閣。杭州府仁和県(浙江省)の人。詩人である黄樹穀の子で、詩を家学とした。また篆書・隷書を得意とし山水画も巧みで董源・関同に師法している。
篆刻は丁敬に直接師事し、丁敬の諸様式を学び、浙派としての様式を確立した。黄易はさらに秦・漢の印に学び独自の境地を拓き、金石学に詳しいことから「丁黄」とも並称された。篆刻の西泠四家に数えられる。
黄易は、山東省嘉祥にある後漢の遺跡・武氏祠を発見し、その石室が荒れていたのを保護した。また漢石経・范式碑・祀三公山碑などの碑を双鉤にとって世に広めるなど、漢・魏の研究に努めた。
当時、金石学で著名な阮元・王昶・翁方綱・孫星衍らとも交流があった。
75 王念孫 乾隆9年3月13日(1744年4月25日)-道光12年1月24日(1832年2月25日)
字は懐祖。号は石臞先生。江蘇省揚州府高郵州の出身。
音韻訓詁の学にすぐれ、古典の実証的解釈学に新生面を開いた。戴震、段玉裁および子の王引之とともに、戴段二王と称された。
76 汪中 乾隆9年12月20日(1745年1月22日)-乾隆59年11月20日(1794年12月12日)
字は容甫。江蘇省江都の人。経学の造詣が深く顧炎武の経論を重んじ、宋学と漢学を兼備したバランスのとれた考証学を形成していた。駢文の名手でもあり、浙江の文宗閣において四庫全書の校訂に当たった。
77 武億
字は虚谷、自ら半石山人と号した。河南省偃師の人。考拠を工にし尤も金石を好んだ。
78 趙魏
字は恪生、晉斎と号した。浙江省仁和の人。歳貢生で、博学嗜古、篆隷を工にし、碑版法帖の考証に精しく、その蔵するところの商周の彝器款識及び漢唐の碑本は天下第一といわれた。
79 洪亮吉 乾隆11年(1746)-嘉慶14年(1809)
字は君直・稚存。号は北江、晩年は更生と号した。もとの名は蓮。常州府陽湖県(江蘇省陽湖)の出身。本貫は徽州府歙県。
早くから詩人あるいは駢文の大家として知られ、学者としても経学、地理学、史学に優れていた。
80 呉東発
字は侃叔、芸夫と号した。浙江海塩の人。歳貢を以って成均(大学)に入った。性、孝友で詩文に長じ、六書に通じ、篆・隷を工にし、山水画を善くしたが、特に金石の学に力を致し、商・周・秦・漢の文字について研究した。
81 馮敏昌 乾隆6年(1741)-嘉慶11年(1806)
字は伯求、号を魚山。広東欽州(広西省欽州)大寺鎮馬崗村の人。乾隆43年翰林、のち刑部主事となる。隷書を能くし、また画は松・竹・蘭・花卉を得意とした。読書を能し、独力で一家を成した。
82 趙懐玉
字は味辛・億孫といい、乾隆の挙人で、登州知府に官した。詩を巧にし、同里の孫星衍・洪亮吉・黄景仁と並び、孫・洪・黄・趙の称があった。
83 宋葆淳 乾隆13年(1748)-?
字は帥初といい、芝山と号し、晩年は隱陬ともいった。山西省安邑の人。乾隆の挙人で、解州の学正に官した。金石の考拠に長じ、鑒別を善くし、画山水を工にした。
84 盛c 道光30年正月13日(1850年2月24日)-光緒25五年12月20日(1900年1月20日)
盛cは清の宗室、饒白旗人。字を伯煕といい、光緒の進士で、官は祭酒に至った。人となり簡素清謐、風雅を崇尚し、文誉海内に満ちた。書画の鑑賞に精しく、経史及び中外の地理を考訂し、皆、精覈人に過ぎるものがあった。
85 成親王 乾隆17年2月7日(1752年3月22日)-道光3年3月30日(1823年5月10日)
乾隆帝は中国最大の漢籍叢書である四庫全書を編纂された。
成親王は乾隆帝の第十一の皇子。名は永瑆、字は鏡泉、号は少厂・即斎、諡は哲。幼時から書に志し、帖学派の系統に属し、趙孟頫・董其昌風の秀潤な楷書・行書に秀れる。のち唐宋の諸家を臨模し、温健秀麗の作は当時極めて重んじられた。
人格には問題があったとされるが、永瑆の書道・芸術の才能は高く評価されている。彼は撥鐙法(馬の鐙を撥ねるように筆を扱う技法)を考案し、書の理論を深めた。 彼は清朝で最も優れた書家の一人であり、翁方綱・劉墉・鉄保とともに乾隆四大家と称された。
成親王は聴雨屋集・倉龍集・成親王の詩文を集めた詒晋斎集などの著作を残した。
詒晋斎とは、晋の陸機の平復帖を宝蔵したことからの命号。平復帖は、宋の徽宗皇帝の御倉に収められ、米芾・董其昌などの歴代の鑑賞を経て、乾隆帝のときに皇帝コレクンヨンとなり、さらに成親王26才(乾隆42年 1777)のときに皇太后の遺品として下賜された。のちに個人蔵となったが、現在は北京故宮博物院の収蔵品。
86 鉄保 乾隆16年(1751)-道光4年(1824)
満州正黄旗の出身で、姓は棟鄂、字は冶亭、号に梅庵・惟清斎等。乾隆37年(1772)、進士となり、諸官を歴任し両江都督に至った。顔真卿の楷書や王羲之の草書などの法帖をよく学んだ。
87 江徳量
字は成嘉・秋史といい、乾隆の進士で、編修を授かり、御史に改められた。文字の学に精通し、好んで碑版、名書画、古泉の類を蒐集した。
88 趙紹祖
字は縄伯、琴士と号した。安徽省徑県の人。朱笏の知を受け県学に入学し、学大に進んだ。既にして屡々棘閹
に薦められたが售れず、滕州、広徳州等に訓導となりしも数月にして去り、池州の秀山、太平の翠螺の両書院に主講として殷勤教誘して倦容なく、旁ら益々力を経史、百家及び碑版文献の属に専らにした。
89 孫星衍 乾隆18年(1753)-嘉慶23年(1818)
字は淵如、号は季逑。常州府陽湖県(江蘇省常州)の出身。
銭大マの教えを受けて広い学識をもち、特に諸書の校定に力を注ぎ、尚書今古文注疏・蒼頡編・尸子などを集大成し、金石学の寰宇訪碑記などの著や、芳茂山人詩録などの詩集と合せて、平津館叢書および岱南閣叢書として刊行した。
90 法式善 乾隆18年(1753)-嘉慶18年(1813)
字は開文、梧門・時帆と号した。モンゴル正黄旗の家柄。詩文にすぐれ、また書画の収集家としても有名。
91 邢澍 乾隆24年(1759)-道光3年(1823)
字はを雨民、栓山と号した。甘肅省階州直隸州(甘肅省武都県)の人。清代史学家で金石学家で、博学洽聞、蔵書万巻。
92李堯棟
字は東采・伯和、松雲と号した。書は八体ともに工にしたが、特に小楷を善くした。
93 陳鱣 乾隆18年(1753)-嘉慶22年(1817)
字は仲魚、簡荘と号した。浙江省海寧z石の人。蔵書が極めて多い。
94 伊秉綬 乾隆19年(1754)-嘉慶20年(1815)
字は組似、号は墨卿・南泉。朝棟の子。福建省寧化の人。
家学を受けて程朱学を奉じ、道学者として終生を貫いた。
清朝書法四大家の1人(伊秉綬・劉墉・ケ石如・張裕サ)。書は各体にすぐれたが隷書において特異な風格を出し、八分では新鮮と雄偉の書風をもって聞えた。顔法を基礎とし、ときには篆書や楷書を交えて独自の書風をつくりだした。
七言絶句軸 |
汪君墓題字 |
魏舒伝 |
旧拓焦山周鼎銘題字 |
宋拓顔真卿多宝塔碑題字 |
清詩 五言聯 |
政声 五言聯 |
七言対聯 |
感懐語軸 |
七子清唫処額 |
臨三帖扇面(右軍帖) |
七言対聯 |
臨漢碑銘隸書四屏 |
蘭亭 五言対聯 |
臨 衡方碑 |
惜福 七言聯 |
黛色 七言聯 |
詩到 五言聯 |
賞心 七言聯 |
再游 七言聯 |
95 王芑孫 乾隆20年(1755)-嘉慶22年(1817)
字は念豊・鉄夫、慯甫と号し、また楞伽山人ともいった。江蘇省蘇州府長洲県の人。
芭孫は詩は五言古詩を工にし、書法を以って名があった。
96 石韞玉 乾隆20年(1755)-道光17年(1837)
字は執如、号は琢堂、獨學老人、花韻庵主人、江蘇省呉県生まれ。清王朝の状元、政治家。翰林院修撰を授与される。著すところに独学廬詩文稿がある。
97 郝懿行 乾隆22年(1757)-道光5年(1825)
官界での立身をまったく無視し、学問、著述に専念、その分野も経学、史学、地理学、言語学から農学、水産学、生物学にまで及ぶ。詩文にも長じ、また優れた随筆もある。
98 銭泳 乾隆24年(1759)-道光24年(1844) 銭泳(軸(中国-1))
初名は鶴。字は立羣。梅溪・臺僊と号した。江蘇省金匱の出身だが、常熟に住んだ。
詩をよくし、書は篆隷、楷行に長じ、とくに蘇軾を宗とした。
模勒鐫刻につとめ、この方面の業績は多い。成親王に知られ、詒晋齋法帖の搨模に従事した。
99 崇恩 嘉慶8年(1803)-1878年
覚羅氏。満州正紅の旗人。字は仰之、雨船・澹園・澗村の諸号あり、別に香南居士と号し、また語鈴道人とも称した。書は初め晉人を学び、中年には顔書に、晩年で始めて東坡の書を法とした。碑帖に精鑒で、香南精舎には宋元の佳拓を多く収蔵し、三蔵聖教序は天下第一と称せられた。
100 秦恩復 乾隆25年9月29日(1760)-道光23年(1843)
字は近光、敦夫と号した。江蘇省江都の人。乾隆の進士で、編修に官した。鑒蔵に精で、居るところの五笥仙館には書、万巻を畜え、列子・鬼谷子・揚子法言・三唐人集・隷韻・詞林韻釈の諸書を校刊した。嗔詞を善くした。
101 翁広平 乾隆25年(1760)-道光22年(1842)
字は海琛、号は海村・鶯漁翁と号した。清の歴史 江蘇省平望鎮の出身。博学好古にして画山水を善くした。
102 鈕樹玉 乾隆25年(1760)-道光7年(1827)
字は藍田・匪石、人は非石先生と称し、自号は匪石山人。江蘇省呉県の人。博く群書を究め、小学に深く、説文解字校録・説文新附字考などの著がある。
103 江藩 乾隆26年(1761)-道光11年(1831)
字は子屏、鄭堂と号した。本籍は安徽旌コ之江村(金属白地鎮)、のち江蘇省甘泉(揚州)の人。少にして学を
元和の恵棟、呉県の余蕭客、江声等に受け、群籍を博淙し、史学に通じていた。
104 厳可均
厳可均は字を景文といい、鉄橋と号した。浙江烏程の人で、嘉慶の挙
人であり、文字の学に邃く、説文声類・鉄橋漫稿の著がある。
105 阮元 乾隆29年1月20日(1764年2月21日)-道光29年10月13日(1849年11月17日)
字は伯元。号は芸台と号し、別に擘経老人、頤性老人などともいった。諡は文達。
揚州府儀徴県(江蘇省)に生まれる。本貫は揚州府甘泉県槐泗(江蘇省揚州市邗江区槐泗鎮)。
地方官として功績を残すと同時に、清朝屈指の学者として知られ、門下より多数の人材を輩出した。金石に詳しく、これに基づいて北碑南帖論、南北書派論を展開し、北碑をもって書の正統とした。
106 張問陶 乾隆29年(1764)-嘉慶19年(1814) 張問陶(扇面)
字は仲冶、船山と号し、その容貌が猿に似ていることから、蜀山老猿とも号した。四川省遂寧県(蓬溪県)の人。書は放野で米芾に近く、画は徐渭(青藤)に近く、経意せざる所に天意ありと賞された。詩風は平易,生気にあふれ,気骨に富み,巧緻に走りがちであった当時の風潮のなかでは特異。
107 李富孫 乾隆29年(1764)-道光23年(1843)
字は薌沚・既汸・薌汲、浙江省嘉興の人。嘉慶の抜貢で、文字の学に精しく、著書が多い。
108 呉修
字は子修、思亭と号した。貢生で、布政使経歴に官した。詩古文を工にし、鑑別に精しい。
109 洪頤煊 乾隆30年(1765)-道光17年(1837)
字は旌賢、筠軒・倦舫老人と号した。臨海(浙江省臨海市)の人。孫星衍の門人で、経史に精しく、嘉慶の間、星衍の糧道署に客となり、その平津館所蔵の碑を読み、著すところが少なくない。弟の洪震煊も経学に精しい。
110 馮登府 乾隆48年(1783年2月12日)-道光21年10月25日(1841年12月7日)
字は雲伯、勺園・柳東と号した。浙江省嘉興梅裡の人。幼にして即ち能く韻文を作り、中年、深く漢儒の家法を得、兼ねて金石文字に通じ、また古彝器及び甎瓦の遺文を集めて多数の著がある。
111 呉徳旋
字は仲倫。江蘇省宜興の人。貢生。古文を以って天下に名あり。詩も高澹絶俗。書については書法を陽湖の銭伯垌に受けたと著にある。
112 張廷済 乾隆33年(1768)-道光28年(1848)
字は汝霖または順安といい、未亭・叔未・眉寿老人などと号した。その居を清儀閣という。浙江省嘉興の人。
金石書画の収集家として名を馳せ、その収蔵品は金石書物はもちろん、殷周時代の旧い銅器や秦漢時代の瓦や古銭など幅広い分野におよんだ。
書においては米芾の作品に学び、息の短い筆法による行楷書を得意とした。
113 陳鴻寿 乾隆33年(1768)-道光2年(1822)
字は子恭、号は曼生・曼寿・種楡道人。杭州府銭塘県(浙江省)の人。
文章・詩文に優れ、西泠八家の1人で、西泠後四家に加えられ、弟の陳雲伯と二陳と称された。
篆刻は丁敬・黄易を宗とし、その師法を基礎に自由で堂々とした作風だった。印刀はまるで筆を使うがごとくだった。書は、篆書・隷書・行書・草書に独特の境地に至り、隷書は開通褒斜道刻石など摩崖を好み、
書法にこだわらない文人的な趣きがある。
蘇軾詩四屏 |
癡聾逸士自句聯 |
隷書冊頁 |
浙江博物館蔵五言聯 |
行書条幅 |
黄山 七言巨聯 |
珊瑚 五言聯 |
元亮 六言聯 |
行書条幅 |
流風 八言對聯 |
行書条幅 |
清譚 五言聯 |
汲古 秋濤 五言聯 |
陸游 書幸詩 |
七絶軸 |
114 瞿中溶
字は木夫・鏡涛、木友と号した。江蘇省嘉定の人。金石の学に深く、篆刻・書画に秀でた。著作は極めて多い。
115 李兆洛 乾隆34年(1769)-道光21年(1841)
字は申耆、養一と号した。江蘇省陽湖(武進県)の人。博学で特に地理,天文に詳しく,陽湖派古文の作家として,魏晋時代の駢文と散文が区分されない頃の文体で落ち着いてつやのある文章を書き,また詞の分野でも張恵言の常州派の一人に数えられる。
116 李宗瀚
字は北溟、公博・春湖と号した。江西省臨川県温圳楊溪村(進賢県温圳)の人。書法家で、著名な碑帖收藏家。
117 朱為弼 乾隆36年(1771)-道光20年(1840)
字は右甫、号は椒堂・菽堂・頤齋。浙江省平湖縣(嘉興市)の人。
書・画・刻印・詩文に名があるが、もっとも評価を受けたのは金文研究で、積古斎鐘鼎彝器款識の編集主任として、載せられた古銅器の編次と釈読にあたった。
118 梁巘 康熙49年(1710)-1788年後期
字は聞山、文山、号は松齋、斷硯齋主人、亳県(亳州市譙城区)の人。
詩文に優れ、書は同時代に活躍した考古学者の段玉裁に師事し学びその成果を著書述筆法にまとめた。顔真卿や柳公権、米芾、趙孟頫などを学んだと言われ、明の董其昌の影響も強いとみられる。帖学派の代表格で、同時期に名を馳せた梁同書や梁国治と合わせて三梁と称された。
119 陳寿禧
字は恭甫、左海と号した。年40のとき母に孝養をつくす為め官を棄てて帰り、鼇峰書院に主講となり、廉耻をたっとび、礼法を践み、経術を修め、実践すべきことを以って教とした。
120 陸耀遹
字は紹聞、劭文と号した。詩を工にし、尺牘に長じた。
121 呉栄光 乾隆38年(1773)-道光23年(1843) 5室
字は伯栄、荷屋・石雲山人と号し、晩に拝経老人といった。南海(広東省)の人。
書は帖学派を主とした。収蔵家としても活躍し、収蔵品をもとに筠清館法帖を刻した。
122 徐同柏 乾隆40年(1775)-咸豊4年(1854)
もとの名は大椿。字は籀荘。浙江省海寧の人。
金石古器の収蔵家として有名な張廷済の甥。文字の学に精しく、廷済が古器を入手すると必ずその考證について相談にあずかった。また篆書をよくし、廷済の所用印の多くはその手になったという。
著に従古堂款識学などがある。
123 梁章鉅 乾隆40年(1775)- 道光29年(1849)
字は苣鄰、退菴と号した。福建福州府長楽県(福建省福州市長楽区)の人で、清初に福州市区に転居した。
文選研究の大家で、文選旁証を著した。
124 包世臣 乾隆40年(1775)-咸豊5年(1855)
字は慎伯・誠伯、号は倦翁など。安呉先生と称された。寧国府県(安徽省)の人。
書を好み,欧陽詢,董其昌らの影響を受け,のち北碑に力を注ぎ,晩年はまた王羲之の風を好んで書いた。阮元 の説を受けて北碑に注目し,清代後半期の北碑の流行の素因となった。
著書の芸舟双楫において六朝の碑文を学ぶことの大切さを述べているが、この論は後に康有為によって法帖を否定し碑学を尊ぶ主張へ繋がっていく。
真學 八言聯 |
臨王羲之堅室帖 |
録坡公語立軸 |
贈矩亭楷書四条屏 |
嬌舞倚床図便面賦 |
刪定書譜 |
十七帖疏證 |
予既 軸 |
節臨書譜軸 |
節臨張旭秋深帖 |
萃百花園五楽詞 |
王羲之思想帖 |
論書 軸 |
孝女曹峨碑 |
餮魯郡争座稿 |
125 葉志詵 乾隆44年(1779)-同治2年(1863)
字は東卿、晩号は遂翁・淡翁。湖北漢陽の人。金石学に詳しく、蔵する彜器が多く、笏清館金石録に多く采録されている。
126 張維屏 乾隆45年(1780)-咸豐9年(1859)
字は子樹・南山、松心子と号し、晩号は珠海老漁。原籍は浙江山陰だが、広東番禺(広東省広州)の人。
書を工にし、医学に通じ、尤も詩を工にし、卓然として一家をなし、林伯桐・黄喬松・譚敬昭・梁佩蘭・黄培芳・孔継勲と雲泉山館を白雲山に築き、称して七子詩壇といった。著に、松心詩文集がある。
127 楊文蓀
字は芸士。図籍の収蔵を好み、尤も説文を嗜み、曾って清朝古文彙鈔を著し、評選の精確を以って称せられた。
128 銭儀吉 乾隆48年(1783)-道光30年(1850)
字は藹人、号は衎石・新梧。浙江省嘉興出身。幼いころからいとこいとこの銭泰吉(号は警石)と切磋琢磨し、嘉興二石と称された。経伝に詳しく、宋元以来の経説を捜刻して経苑をつくり、碑伝集を輯するなど多くの事蹟をのこした。
129 王筠 乾隆49年(1784)-咸豊4年(1854)
字は貫山、篆友と号した。山東安丘県(山東省安丘市)の人。
博く経史に渉り、文字の学に邃く、著した説文句読、段玉裁・桂馥の説を折衷し、独り門戸を闢けるもので、論者は二家の勁敵であるといっている。
130 郭尚先 乾隆50年(1785)-道光12年(1832) 郭尚先(軸(中国-1)) 張偉庵処士家伝
字は蘭石。元聞・伯柳などと号した。福建省莆田の人。当時、法帖を学ぶ者は日ごとに少なくなる趨勢だったが、郭尚先は依然として帖学派を標榜し、董其昌流の瀟洒で華麗な書風をよくした。