錢坫 せん・てん

庭下乃生畫帯艸
 庭下 乃(すなわ)ち生ず 畫(画) 艸(草)を帯びるを
胸中賸有洗心経
 胸中 賸(雑念)有りて 心 経で洗う
30p×125p聨

乾隆6年(1741)生〜嘉慶11年(1806)歿
製作年  不明
 清代中期の金石学者。字は獻之、十蘭と号す。江蘇省嘉定(今の上海市)の人。乾隆39年(1774)、副榜貢生となり、のち畢沅の幕下に入り、その後の20数年間は、陝西省各地の州県官をつとめた。非常な勉強家で、訓詁・説文・地理の学にすぐれていたが、この在官の間に多くの古器物を得たことで、学問は一層深まった。また白蓮教の乱徒から華州城(陝西省)を死守するという武功もたてた。退官後は蘇州に住み、その地で歿した。
 かれは金石碑版の学に精通した。『説文解字斠詮』は、文字学に関する深い造詣によったものであり、『十六長楽堂古器款識』は、所蔵の銅器の器形図と銘文の模写に考釈を付した著で、後世に高い評価をうけた。
 また包世臣の「完白山人伝」によれば、銭坫・銭伯坰と包世臣は、忘年の交りを結んだことが知られる。包は『芸舟雙楫』に銭献之伝を著し、その知己であったことを記している。さらに阮沅は、「畢沅先生が山左の巡撫だったとき、その収蔵の鼎の拓本と銭坫が作った釈文を私に示した」とあり、また阮沅の『積古斎鐘鼎彝器款識』の序文にも「同好の友人の一人」として、朱為弼・孫星衍・張廷濟らとともに、銭坫が挙げられている。
 書は篆書にすぐれ、包世臣は「国朝書品」で佳品上におくのみであるが、かれ自身は、ただちに李陽冰に次ぐと自負したという。篆書の学習は、叔父の錢大マに示唆され、李陽冰(唐代後期の篆書の名人)の「城隍廟碑」を専習した。当時、篆隷の名筆として、ようやく名の出てきたケ完白の隷書を、文字学からはずれた無学の書として認めず、固く古格を保持した話も有名である。
 晩年、右手の自由がきかなくなり、左手で書いたが、それがまた精絶だと称された。しかし、馬宗霍は「獻之の篆書は、焼筆(毛先を焼くこと)を用いずに書いたが、婉通の法を会得できていない」と評している。が、いわゆる玉箸篆と呼ばれる篆書をもって天下に名を得たことも事実である。


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