岡田 松窓 おかだ しょうそう
   

沍寒凛烈逼戎衣
積雪没腰氷在髭
忠節唯期膺聖眷
孝心何孟忘親煎
義州府外進軍日
鐵嶺城頭立馬時
喜汝凱旋春正好
山櫻花底侑芳巵
迎姪陸軍中尉岡田嘉一凱旋喜而賦
沍寒(=非常に寒く)凛烈(=寒さが厳しい) 戎衣(=軍服)に逼(せま)
積雪 腰没し 氷 髭に在り
忠節 唯だ期(=待つ) 聖眷(=目をかける)を膺(うけ)るを
孝心 何ぞ孟(つと)める 親の煎(=つらい思いをさせる)を忘れる
義州府外 進軍の日
鐵嶺城頭 立馬の時
汝 凱旋を喜ぶ 春 正に好し
山櫻花底(のもと) 芳巵(=杯)を侑(すすめ)
  姪の陸軍中尉岡田嘉一の凱旋を迎え喜んで而して賦す    
193p×84p   義州府=北朝鮮北西部に位置する行政府の道都
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%BA%9C%E5%88%B6
    http://www.kyougoku-do.com/tyousenn-t2.htm
  鐵嶺=現 遼寧省地級市
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B6%BA

元治元年7月2日(新暦 1864年8月3日)生〜歿年不詳
制作年 明治28年(1895) 32歳
 名は英・壽一郎、字は子俊、松窓と号した。岡田伊一郎の長男として、河内国丹南郡岡村(現 大阪府藤井寺市)に生まれる。明治10年(1877)、父の死により家督を継いだ。岡田家は、18世紀末以降同村の庄屋を世襲した家で、農業をはじめ、金融業・商業などを営む、村で一番の有力者だった。
 明治27年(1894)6月、岡田家は個人で「岡田銀行」を開業した。資本金2万円は全て自己で賄い、大坂周辺の地域では群を抜いて早い開業であった。平成18年度一橋大学附属図書館企画展示「江戸時代の豪農と地域社会:岡田家文書の世界」によると、銀行の開業に伴い、岡田家では西洋式の銀行簿記を導入した。日毎の取引を順に記入した「金銀出納帳」を取引科目毎に寄せ(「日記帳」)、最終的には「総勘定元帳」によって整理するという、当時最先端の簿記方式を採用した。複式簿記の導入に伴って、当時の銀行簿記の参考書に挙げられている本店・支店間の取引の一部を写したものが残されている。また、帳簿は大阪の帳簿製造会社に発注したオリジナルなものを用いている。開業に当たっては、預金利子率などを記した広告を周辺地域に配布した。
 経営は当初順調であったが、のち停滞し、明治34(1901)年6月大阪周辺の金融恐慌の中で自主廃業を行った。その後、岡田家は近隣で明治29(1899)年に開業した更池銀行の第三位株主として金融業との関係を続けていく。
 そうした中、松窓は名利(名誉と利益)に無欲で、役職を辞し、俗世を離れた生活をした。彼は幼時より土屋鳳州の門に遊び、漢籍を修め詩文を学んだ。また、小野湖山五十川訊堂藤澤南岳に益を受け、才能を開花させた。その詩は「温厚和平にして朗々誦すべきものあり」という。
著書に『松窓詩鈔』(明治44)など詩集四巻がある。
 この作品の詩文中に「義州府」とある。義州府とは、朝鮮王国の行政区画(二十三府制)の一つ。朝鮮王国の高宗32年(1895 明治28年)の勅令第98号によって実施されたが、翌年に廃止された。とすると、この作品は明治28年、姪の陸軍中尉岡田嘉一氏が明治二十七八年戦役(日清戦争)から凱旋した時、「岡田銀行」を開業直後に書かれたと思われる。
 引首印は「松窗」、「松窓英」の下に、白文の「岡田英印」、朱文の「子俊氏」の落款印が押されている。
 巻き止めには、「迎姪嘉一凱旋詩 松窓岡田英自署」とある。

 参考文献
  *平成18年度一橋大学附属図書館企画展示「江戸時代の豪農と地域社会:岡田家文書の世界」
      (http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/okadake/case7.html)
  *『松窓詩鈔』上下(明治44)
  *『大正人名辞典』上(日本図書センター 1987「第4版 東洋新報社 大正7年刊の複製)

推奨サイト
http://www.db1.csac.kansai-u.ac.jp/hakuen/syoin/retsuden046.html


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