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 第3巻 第18章-3 藤原楚水著 省心書房

七 太宗と書道

1 太宗とその人物

太宗は、唐朝の第2代皇帝、唐汗国の初代天可汗。諱は世民。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。
優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる。

太宗、初め秦王であったとき、即ち文学館を開き、杜如晦、房玄齢等十八人を以って学士と為し、登極の後は、更に大いに学校を興し、孔子廟堂を国学に立て、天下の儒士を徴し、以って賢を養い俊を毓し、教育の盛、四海に風被した。
唐代学校の制度の頗る完備していたことを窺うべきであるが、太宗はまた儒学の門戸広く、章句複雑で、その解釈区々なるを以ってこれが刊正の必要を認め、顔師古、孔穎達、諸人を前後登用してその校訂にあたらしめ、五経の義疏凡て一百七十巻を撰定し、名づけて『五経正義』といった。
このように太宗は意を文教に用いられたけれども、書はその最も嗜好された所で、就中、王羲之の書を酷愛し、小説的物語をすら生ずるに至った。
蘭亭叙を太宗が賺取したとか、或はこれを殉葬したというが如きことは、必ずしも信じ難いが、王羲之の書を酷愛したことは事実で、それを窺うに難くない。太宗は自ら書を好まれたのみならず、子弟の教育にもこれを奨励した。
又、国子学に於いても、書学を算学と並べて課程の一に加え、当時、試士の科目は十種あったが、書学科は秀才、明経、進士を通じてその一科に列せられた。

2 太宗の書学

太宗の書学については詳しい記録がない。
太宗の書学は、全く多くの墨蹟を蒐集玩索し、これによって妙処に悟入されたものと思う。

3 太宗の主なる書蹟

太宗の御書の著録に見えるは、真草屏風書・飛白書・晉祠銘、魏徴碑があり、この外、玉海・金壷記等多く飛白書のことを載せている。
『宝刻類編』に載するところには、贈司空魏鄭公碑・晉祠銘・温泉碑・登逍遙楼詩・批答李順卿賀状があり、『山西通志』には太宗御製詩石刻がある。この外には淳化閣帖中の尺牘、宋の嘉泰間の刻石にかかる屏風碑(浙江余杭)、敦煌出土の温泉銘拓本等が世に知られ、就中、晉祠銘と温泉銘は代表的のものとされている。

1 晉祠銘 貞観20年(646)
晋祠銘は、太宗が高句麗遠征から戻る途中、唐創始の地である太原の晋祠に立ち寄り、神徳を永遠に伝えるために碑を建てたもので、行書で刻した最初の碑。碑額は飛白体で3行、本文は行草書で28行。
この碑は山西省太原市西南の晋祠内の唐碑亭に現存している。晉祠は一名晉王祠ともいい、周の唐叔虞の祠である。


2 温泉銘 貞観21年(647)
この銘は、宋の時には尚その碑が存したようであるが、久しからずして亡佚したか、その後の金石書には殆んど著録が無い。唯、宋の潘師旦が絳帖に刻した纂刻本が世に伝わっているが、真絳帖の全本は宋の時已に佚亡して、流伝するものもなく、今存するところの絳帖は、後人の偽刻である。
番漢釈典によれば、温泉銘は貞観21年(647)、即ち太宗崩御の3年前の撰となっているから、晉祠銘を書かれた翌年の書と推定できる。


3 屏風書
晉祠銘や温泉銘と比べて見て、屏風書が太宗の手筆とは考えにくいが、大正期にこの問題に断定を下した人に松田南溟がある。「唐太宗屏風書は太宗の書に非ずして新撰類林抄の書者と同一なるを論ず」という長い題名の一文で、なかなか説得力のあるものである。新撰類林抄(国宝の草書書巻で京都国立博物館蔵)は、わが国に古くから弘法大師の書などといわれて伝わってきたものである。
屏風書にはふだん見なれない草書の形があるが類林抄に全く符節を合せたように同じ形が多く見られる。南溟はこれを対照して示し、「屏風」は太宗の書に非ず「類林」また本邦人の書に非ず、両者とも中唐期の同一人の書と断じた。
屏風書が太宗の親筆であるかどうかは別として、唐人の手になる草書として、重要な存在であることは確かで、もっと注目されてよいものである。


4 尺牘
太宗は各体ともに皆工であったが、尤も王右軍の書を好まれ、手もとに所持する金を出して世間に散在せる遺墨を購聚し、心摹手追されたが、晉書を修するに及び、親ら羲之伝を作り、其の後に書して云く、王羲之の書のみ独り師法とすべきと述べている。が今、太宗御書の尺牘、また晉祠銘、温泉銘等を観るに、王羲之よりは寧ろ王献之に近いところが多いように思われる。


江叔帖


両度帖


八柱帖


気発帖


唱箭帖

5 太宗と飛白書 <飛白体>
太宗は行草の外、飛白書を能くされ、往々之を書して臣下に賜った。
貞観17年、三品以上の位の官を招いて、玄武門の賞宴を開いた。その席で、太宗は群臣に自書の飛白書を賜った。貞観21年にも、太宗は馬周の功労を褒章して飛白書を与えている。

八 唐の歴代宸翰および諸王の書蹟

太宗の書道奨励は後代にも影響し、太宗についで帝王の位に即かれた高宗もまた樽を袴くし、その後歴代の帝王はみな書をよくされた。唐代の宸翰及び諸王の書にして『宝刻類編』に収めるところは頗る多い。

高宗
万年宮碑・紀功碑・登封紀号文二・英国公李勣碑・孝敬皇帝睿徳碑・万年宮銘并碑陰・大唐紀功之頌・棲霞山亭記
武后
周昇仙李廟碑
中宗
高宗述聖記
睿宗
幽国公竇孝ェ碑
玄宗
竇孝ェ碑・起義堂碑・黄門監盧懐慎碑・涼国長公主碑・紀泰山碑・一行禅師塔碑・龍角山慶唐観紀聖銘・涼州都督王君?碑・贈吏部尚省書蕭瑛碑・賜張忠敬手詔・后土神祠碑・賜趙仙甫詩・注道徳経・刺史盧奐庁事贊・贈太師裴光庭碑・金仙長主主碑・鄭国長主主碑・真源観鐘銘・注孝経・贈兵部尚書楊元瑛碑・上党啓聖宮頌・武部尚書楊`碑・送太守康公詩・鶺鴒頌・貞順皇后武氏碑・謁玄元皇帝廟詩・上党宮燕群臣故老詩・姚崇碑・敕冀州刺史源復詔・登逍遙楼詩・老子道徳経・華岳廟碑・鳴呼積善之墓
粛宗
刻逍遙楼詩答詔・乞御書放生池碑額批答・来曜碑
代宗
贈太保郭敬之廟碑・慈恩寺常住荘地碑
徳宗
河中尹渾城批答・刑政箴并批答

<太子諸王>
相主旦
周封中岳碑・周昇中述志碑・周許由廟碑・大周孔子廟堂之碑・武士彠碑・則天母孝明皇后楊氏碑・龍興聖教序
寧王憲
金城県霊宝観頌
慶王j
明皇注道徳経
皇太子鴻
紀聖碑陰題名
皇太子紹
明皇注道徳経・真源観鐘銘・三門紀功頌・明皇注孝経・贈兵部尚書楊元琰碑・贈上党故吏勅書・武部尚書楊`碑・贈吏部尚書楊銛碑・貞順皇后武氏碑
棣王琰
三門紀功頌
雍王(徳宗)
遊三門記
皇太子誦(順宗)
贈太尉段秀実碑・麟徳殿宴羣臣詩・修貞宮碑・徳宗幸章敬寺詩・徳宗送張建封還鎮詩・紀南充県謝自然上昇勅・成徳節度王武俊先廟碑・韋皐紀功碑

此の如く太宗、高宗は勿論、中宗にも乾陵述聖紀があって、今その半截を存し、又、賜盧正道勅がある。
賜盧正道勅
全体からうける最初の印象は、一種異様な妖しさである。行のたて方も時々左右にずれ、一字の結體もアンバランスな所がある。いくぶん細身の線がスケールの大きさを強調して、鄭道昭の一連の摩崖にも通じる効果をあげている。

睿宗は嘗って潜邸にあって書を工にし、虞永興の廟堂碑の題額を書し、昇仙太子碑陰には二薛、鍾紹京と並び書し、周順陵残碑にもまたその遣跡が存している。この二帝は行草を善くしなかったようだが、正書は工であった。
景龍観鐘銘

玄宗に至っては、幾余、芸に遊び、八分に専精し、また行書を善くした。
即ち太宗が行書を以って初めて碑に書するや、これより行書碑の多くを生じ、玄宗の八分を好むや、隷書碑が盛行し、上の好むところは風尚を移し、以って当時の書道に影響を及ぼすところが少くなかったが、元和以後は、唐の徳衰え、また奎章の世に耀くものなく、書の一道も国運とともに転移するを免れなかった。

一 高宗とその書蹟

高宗は太宗の第九子で、母を文徳順聖長孫皇后といった。貞観2年(628)6月に降誕、5年、晉王に封ぜられ、7年、井州都督を授けられた。

1 万年宮銘 高宗御製并行書 (永徽5年5月・654) 陜西麟遊
万年宮は九成宮の改称で、隋の仁寿宮である。即ちこの碑は永徽五年歳次甲寅五月景午朔十五日庚申の建で、古同宗がこの離宮に行幸になり、この碑を立てられたもので、中書門下、及び見従の三品以上の文武官、学士らが自ら官名を碑陰に書すことを許され、長孫無忌、褚遂良、許敬宗、李義甫等の自署が刻されている。
この碑は宋より以来これを著録したものは少なくない。


2 紀功頌 高宗御製并行書 (顕慶4年8月・659) 河南氾水等慈寺
紀功頌は高宗が太宗の竇建徳と戦ってこれを擒にした古戦場を過ぎ、その功業を追懐緬想し、文を撰し自ら書して、石に刻せしめられたもの。書風は王献之に近く、太宗の晉祠銘に似て、それよりは尚、草書に近い行書である。


3 孝敬皇帝叡徳記 高宗御製并行書 (上元2年8月・675)
孝敬皇帝は高宗の第五子、諱は宏、上元二年、高宗に合璧宮に従幸し間もなくして薨じた。その死因に就いては諸説ある。この年、諡号を追加し、緞氏県景山の恭陵に葬った。この碑は高宗が文を製し、これを書しもので、その書は太宗の晉祠銘に近く、題額の飛白書また昇仙太子碑額とともに珍とすべく、また、父にして子の碑を書せるのも異例に属する。
この碑は題して孝敬皇帝叡徳記といえるも、実は皇太子宏の頌徳碑で、皇帝ではない。また宏はその実母の則天武后の為に酖殺されたともいうが、史家の記すところは区々で、未だその確証がない。唯、武后を憎むの余り酖殺説を生んだのであろうとも思われるのである。

4 英貞武公李勣碑 高宗御製御書 (儀鳳2年10月6日・677) 陝西醴泉 李勣碑
昭陵陪葬碑の一つで、今なお陜西醴泉の昭陵に現存する。李勣碑は昭陵の諸碑の中、現存唯一の御製御書の碑で、最大にして最精の石である。
李勣は晩節をつくして高宗に仕えた。總章元年(668)老体をおして遼東道行軍大總管として高句麗討伐にあたったり、平壤を陷れ、高句麗王・高蔵及び男建らを據にし、高句麗を滅亡させるという大功をたてている。そしてその翌年、12月3日戦塵に明けくれた76年の生涯をとじた。
この碑は、上記の如く高宗が国家の元勲たる李勣の為に自ら文を製し、これを書せられたもので、太宗の晉祠銘や温泉銘にも劣らない代表作の一つと称して差し支えあるまい。

二 則天武后とその書蹟

則天武后は名を壁といい、并州文水の人。父馥は工部尚書、荊州都督に官し、応国公に封ぜられた。后の14才のとき、太宗はその有色を聞き、選して才人と為し、太宗崩ずるや、后は髪を削って尼となり、感業寺に居た。高宗、感業寺に幸し、見てこれを悦び、また召して宮に入れ、立てて昭儀と為し、進めて宸妃と号した。永徽6年(655)、高宗は皇后王氏を廃し、宸妃を立てて皇后とされた。高宗は顕慶(656-)より後、風疾に苦しむこと多く、百司の奏事は、時々后がこれを決して、常に旨に称い、これより后は専ら国政に参与することになった。高宗、春秋高くして、后、益々事を用い、上元元年(674)には、高宗を天皇と号し、皇后また天后と号し、天下の人はこれを二聖といった。高宗崩ずるに臨み、皇太子に遺詔して皇帝の位に即かしめ、軍国の大務にして決しがたきものは、天后に進止を取らしめられた。中宗が位に即き、后を尊んで皇太后と称した。
武后は嗣聖元年(684)2月、皇帝を廃して廬陵王と為し、別所に幽して、名を哲と改賜し、予王輪を立てて皇帝と為し別殿に居らしめ、文明と改元し、皇太后朝に臨んで制を称し、諸武、皆権任に当った。茲に於いて人心憤怨し、嗣聖元年(684)7月、李敬業は遂に匡復の兵を起した。則天は大将軍李孝逸に命じ、兵30万の将としてこれを討たせた。敬業、江都に還り、兵を高郵に屯してこれを拒いだが、連戦連敗し、孝逸捷に乗じて追躡、遂にこれを捕獲した。
これより武后、益々宗室の功臣を猜忌し、大いに密告の門を開き、告密者があれば、臣下は問うを得ず、皆、行在に詣らしめ、農夫樵人と雖も召見を得、言うところ旨に称えば、則ち次せずして官に除し、実なきものもその罪を問わなかった。ここに於いて告密者蜂起し、人、皆重足屏息した。胡人索元礼なるもの、太后の意を知り、告密に因って召見され抜きんでて遊撃将軍となったが、性残忍で、一人罪あれば必ず数十百人を羅織す。太后数々召してこれを賞賜し、以ってその権を張らしめた。ここに於いて尚書都事・周興、万年の人・来俊臣の徒これに倣い、興は累遷して秋官侍郎に至り、俊臣は累遷して御史中丞に至り、相与に私に無頼数百人を蓄えて、専ら密告を以って事と為し、一人を陥れんと欲すれば、たちまち数処倶告し、酷吏は刑誅を濫用し、以って威厳を示した。武后は、已に異あるものを除き、天授元年9月(690)国号を周と改め、唐に代って帝と称し、女主を以って天下に臨んだ。
武后は文章詩賦にも通じた。『全唐詩』に武后の詩四十六篇を存し、石刻には嵩山の少林寺に御製詩書碑があり、昇仙太子碑陰に雑言遊仙篇が存している。また天地日月星君年正臣照戴載国初聖授人証生の新字十九を製し、当時羣臣の章奏及び天下の『書契』に、皆その文字を用いさせた。それは今日石刻によっても知られるところで武后の称制後、光宅(684)・垂拱(685-688)・永昌(689)の間は、尚改字しなかったけれども、載初以後(690-)には、皆新製字が用いられている。


昇仙太子碑 (聖暦2年6月699)
426cm×160cm 仙君廟に保存されている。
碑額は飛白体で「昇仙太子之碑」を6字2行、碑文は行草体で33行(一部楷書体で、薛稷によって書かれている)。
碑文に行書を用いた最初の碑は太宗の晋祠銘で、碑額が飛白体で書かれていることから、意識して飛白体にしたものと考えられている。
昇仙太子碑は、草書を使った碑として、最初の女性の書碑。

三 玄宗とその書蹟

中宗の書には乾陵述聖記があるが今は僅かに半截を存するのみ。又、賜廬正道勅がある。睿宗は嘗って虞永興の孔子廟堂碑の題額を書し、又、昇仙太子碑陰に、二薛、鍾紹京と並んでその題記があり、順陵残碑も、また相王旦、即ち睿宗の書である。
中宗の乾陵述聖記は、『石墨鐫華』に、「字法遒健、深く欧・虞の遺意を得、中唐以後の弁ずるところにあらず。」と評し、睿宗また善書を以って称せられ、代宗には嵩山会善寺の手勅があり、皆、唐の諸帝が書に工であったことを窺うべきである。就中、玄宗に至っては、分書の専家といってよい。

1 王仁皎碑 (開元7年11月・719) 陜西大茘
王仁皎は玄宗の廃后王氏の父である。張説が文を撰し、玄宗が親書された。額に御書の二大字、正書を以って題してあるが、何人の筆か明らかでない。

2 華山銘 (開元12年11月・724) 陜西華陰

この碑、今は残欠して四字を存するに過きない。
3 涼国長公主神道碑 (開元12年12月・724) 陜西蒲城
涼国長公主は睿宗の第六女である。この碑も闕渤が多く読みがたい。

4 郎国長公主神道碑 (開元13年4月・725) 陜西蒲城
これもまた八分を以って書かれている。文は燕国公張説の撰である。

5 金仙長公主神道碑 (開元年間・713-741) 陜西蒲城
碑は僅かに上截を存するのみである。公主は睿宗の女であるが、丙午の出生なるを以って女道士となった人である。玄宗は多く八分書を以って碑に施されたが、この碑は行書を以って書かれた。撰文者の徐嬌之は徐浩の父で、書をよくし、官、洛州刺史に至った。

6 紀太山銘 (開元14年9月・726) 山東泰安
摩崖刻、額に紀太山銘の四字を題し、皆、八分を以って書せり。唯、御製御書の四字と、末行の年刀のみが正番である。泰山東嶽廟後の南面の石崖に刻されている。


7 石台孝経 (天宝4載9月・745) 陜西長安
泰山銘と共に玄宗の八分書の代表的のものであると同時に孝経の校勘上にも貢要なものである。四面刻。面広五尺。前三面は十八行、行五十五字。末の一面は前七行、上と同じ。後半は上下二截に分つ。表文は小字九行正書。批答三行は大字行書。下截題名四列。額には大唐開元天宝聖文神武築帝注孝経台の十六字を篆書で題している。
玄宗が当時行なわれていた諸家の孝経注を折衷して、之を天下に頒行し、尚、自ら石に書刻されたものである。
この碑は今もその碑が陝西省博物館の西安碑林に完存し、文字も剥渤せるものがなく、その全拓本を得ることも容易である。
石台孝経の隷書の特徴は、玄宗の「紀太山銘」のように、肥厚体の艶やかな書風。唐時代の隷書は、魏の隷書のような豊艶方整の趣きを感じるが、石台孝経はその一例。


鶺鴒頌


批答頌


九 盛唐の名家とその書蹟

唐は高祖より哀帝に至る20帝、治世290年に及んだが、その間を国力の盛衰変移によって初唐・盛唐・晩唐の三期に分けている。
高祖の唐朝の建設より太宗の貞観(627-649)の世を経て高宗の治世の終りに至る60余年間を初唐といい、則天の世を経て玄宗の開元・天宝(713-756)の間約80年間を盛唐といい、安祿山の乱後、唐朝の終りに至るまでの約150年間を晩唐と称
する。
開元・天宝の40年間に唐の文化はその最高潮に達し、詩に於いては李・杜。画に於いては呉道玄・李思訓・王維。書に於いては徐季海・顔真卿・張懐璢・賀知章・蕭誠・裴涯・李琶・呂向・蔡有鄰・韓択木・史惟川・竇泉・王士則.蘇霊芝等の巨匠名家が輩出した。
殊に書道界に於ける玄宗の影響とも見るべきは、その隷書の盛行し隷書碑が特に眼立って多くなっている。

1 李北海と蘇霊芝

李北海は名を邕、字を泰和といい、揚州江都の人で、諸州の刺史を経て北海太守に至った。高宗の儀鳳3年(678)に生れ、天宝6載(747)70歳を以って卒した。当時太宗の影響を最も多く受け、王右軍の書を学んだ行書の大家で、書碑800余に及んだといわれる、しかしその書碑の世に知られているものは10分の1にも及ばない。
書体は殆んどその大部分が行書で、八分、又は正書は僅かに1、2を数えるに過ぎない。
李北海の書評は、多少肩あがりで所謂鼓努を以って力とし、幾分習気があるのを免れないが、王右軍父子を学んだことは疑いなく、特に太宗の影響を受けたことが著しいようである。

1 少林寺戒壇銘 (開元3年正月15日・715) kohkosai.com/chinaphoto/rakuyou syuuhen/syourinji/page/001.htm
王昶は、「碑は李邕の名を仮りて重きを取らんとしたもので、李北海の書ではあるまい」と見ている。この説信ずべきであろう。


2 葉有道碑 (開元5年3月・717)
この碑は唐の開元の間、道術を以って玄宗の寵遇を受けた松陽の葉法善が、当時詞翰を以って著名であった李邕に、その祖の葉有道の碑の撰文を請い、之を書したもの。
顧炎武は、李北海の書の特色たる肩上りの態がなく、その書碑中の最佳なるものと評している。然しこの碑についても、王昶はこれを李邕の書にあらずと疑い、「この碑に少林寺戒壇銘と同じく、括州刺史李邕文并書とある点が史実と合しない」というのである。


3雲麾将軍李思訓碑 (開元8年6月・720)7
李北海には雲麾将軍碑が二つある。一はこの李思訓碑で、陜西の蒲城に現存し、一は李秀碑で、河北の良郷の県学にあったが、今は北平にその石が存している。
李思訓は隴西成紀の人で、字を建見といい、唐の宗室考斌の子で、戦功を以って官、武衛大将軍に至り、時人称して大李将軍といった。
李思訓碑の全名は「雲麾将軍李思訓碑」、現在に残る李邕の書中で最も損傷を受けていない碑。
李思訓は、山水画の祖として有名だが、後に雲麾将軍右武衛大将軍になったことでこの碑を雲麾将軍碑とも言う。
李思訓碑の造形は、頭部上がりが一番多く見られるが、この構えの字は、王羲之的な造形法で、字形は逆三形。その他、下部に下がったものや、正方形・長方形・ひし形など。楷書的な形もあれば、草書的な形もある。線は、細くて強いのが特徴。


4 娑羅樹碑 (開元11年10月2日・723)
釈尊は拘尸那城跋提河辺の裟羅樹下で入滅したと伝えられている。李北海のこの文はこの奇木と仏教の奇瑞について述べたものである。


5 端州石室記 李邕撰 (開元15年・727)
摩崖刻で碑ではない。李北海の撰文で書者の名がない。
李邕の書であるか否かは疑問であるが、李邕の書とすれば他の書碑は皆行書であるが、独りこの碑のみは楷書である。


6 麓山寺碑 (開元18年9月・730)
この碑も李北海の書として著名である。碑は湖南長沙の嶽麓書院にあり、一に嶽麓寺碑ともいう。
晋から唐までの麓山寺の歴代の出来事を記したもの。
碑文の末に「江夏、黄仙鶴」とある仙鶴とは、李邕自身のことであると言われている。
麓山寺碑は、李邕の行書の特徴をよく表わしており、明るくさっぱりとした筆使いの中にも豪快さを秘めている。


7 東林寺碑記 (開元19年7月・731)
この碑は九江府の東林寺にあり。李北海の書であるが、原石は宋の時に火に燬け、今存するは元代に重刻せるもので、明の時にはそれすら既に多く剥落した。
この碑は重刻を経たるを以って、形似は存するも、神韻は索然たるを免れない。


8 雲麾将軍李秀碑 (天宝元載正月・742)
この碑は李思訓碑と往々混同される。
この碑は『金石録』に著録されているが、その後、砕裂して柱礎とされ、後また瓦礫中に投棄されたが、明の万暦の初、宛平の令李蔭が発見。その後また京兆に移入され、万暦の末、王惟倹がそのうちの四礎を大梁に携え去り、京兆の署中には二礎を存するに過ぎなかった。然してこの二礎もまた久しく草葉の中に埋もれていたが、順天府丞・石門の呉涵が之を発見し、信国祠堂に移して保存した。
李秀(291-没年不詳)は、西晋から五胡十六国時代にかけての女性武将。字は淑賢。楊娘とも称される。広漢郡郪県(現在の四川省三台県)の出身。曾祖父は李氏の三龍と謳われた李朝。父は南夷校尉・寧州刺史の李毅。女性でありながら父に代わって寧州を統治し、異民族の襲来から守り抜いた。


蘇霊芝は、書は当時盛名のあったにもかかわらず唐史にその伝がなく、生卒・歴官等を詳にしがたいが、その書碑の題銜によって武功の人で、登仕郎・行易州録事。承奉郎・守経略軍・冑曹参軍等の官にあり、開元・天宝間(722-755)の人。

1 易州鉄像頌
この碑は易州太守盧暉が鉄の仏像を造り、又太守として善政を施したその徳を行書で頌したものである。


2 易州田公徳政碑
易州刺史田琬の為に州人が立石してその徳を頌したものである。題して大唐正議大夫・使持節易州諸軍事・守易州刺史・兼高陽軍使・賞紫金魚袋・上柱国・田公徳政之碑といい、大中大夫・守中書侍郎・集賢院学士.上柱国・東海県開国男・徐安貞撰・逸士・武功・蘇霊芝書となっている。

3 夢真容碑
この碑は一に唐老君応見碑ともいう。
玄宗皇帝が夢に老子を見、その像を求めて之を宮殿に安置した顛末を勅旨の形式を以って記したもの。
この碑は世に伝わるもの二本あり。一は整屋県にあり。一は易州にあり。文字行款皆同じである。
夢真容の不経の事たるは言をまたぬが、これによって霊芝の書の伝わったことは、唐代の書道史を研究する上に貴重な資料の一つを加えたものといえよう。しかし、その書は易州鉄像頌と大差はない。


4 憫忠寺宝塔頌
これは蘇霊芝が史思明の為に書いたものだが、或部分は後人の改刻であるとの説がある。
その説の当否は別として、蘇霊芝が、当時に於ける書法の名家であったことは疑いない。
この時代の一般の書道が如何なる水準にあったかを窺うことが出来るのである。

2 徐嶠之と徐浩

徐嶠之は越州の人、字を惟嶽といい、官、洛州刺史に至った。徐氏は父子三代善書を以って聞えた。即ち父の師道、子の浩、ともに翰墨に精しく、皆、当時に盛名があった。浩の子の璃もまた書を善くし、わが国の空海が書法を授かったという韓方明は実に珸から書法を受けたものである、漢の蔡邕以後の書道の正派は、盛唐に於いては徐氏の家に伝わりそれが東流してわが国に伝わったことになっている。されば徐氏の書学は書道史上特種の意味を存するものというべきである。

徐浩の書碑はとりわけ多いが、不幸にして多くは伝わらず、わずかに大証禅師碑・不空和尚碑等を見るに過ぎない。

1 大証禅師碑 (大暦4年3月・769) 河南登封
題して大唐東京大敬愛寺故大徳大証禅師碑銘という。碑の文によれば、禅師は陳留開封の人で、俗姓を辺といい、曇真と号した。大証は賜号である。
この碑は嘗って登封に官した王縉が、大証禅師の為に撰文したものである。王縉は広徳の師たりし大照に学び、大証禅師の師たりし広徳と知友で、著名な奉仏の信徒であった。

2 不空和尚碑 (建中2年11月・781) 陜西長安 不空和尚碑
この碑は徐浩の書碑のうち最も完全に伝われるものである。
不空は西域の人で、玄宗・粛宗・代宗の三朝にあって、尤も信寵せられ灌頂の国師となり、代宗の初、特進大鴻臚を以って褒表され、開府儀同三司を加え、粛国公に封ぜられ、特に法号を賜うて大広智三蔵という。京師の大興善寺に滅度す。代宗、為に朝を廃すること三日、司空を贈り大弁正広智三蔵和爾と追諡せられた。
不空和尚碑は、碑石に断裂あるも大要完好にして徐浩の書の大概はこれによって窺知することができる。


この外では朱巨川告身が徐浩の筆として伝えられている。

朱巨川告身 巻子
大暦3年(768)、朱巨川に豪州鍾離県令が授けられたときの告身で、むろん款署はないが、徐浩66歳時の筆と考えられている。
少し軟い楷書で、筆勢は沈雄、盛唐期の重厚さがよく滲み出ている。台北故宮博物院蔵。
明の戯鴻堂帖ほか多くの集帖に刻入されている。


3 裴漼と宋憺

裴漼、宋憺は、共に開元の時、能書を以って称せられた。
裴漼は絳州聞喜の人で、明経に抜きんでて、開元中、東部尚書に累遷し、太子賓客に改り、正平県子に封ぜられ、諡して懿といった。
裴漼の書碑は、唐上党述聖宮頌・嵩嶽少林寺碑がある。上党述聖頌は、石夙に佚し、今之を見がたいが、嵩嶽少林寺碑は、尚、少林寺にあり完好である。
漼の書は初唐の大家には及ばずとも、盛唐の名家たるは失わないであろう。

嵩嶽少林寺碑 開元16年(728) kohkosai.com/chinaphoto/rakuyou syuuhen/syourinji/page/001.htm


宋憺は、字を蔵諸といい、広平の人、布衣であった。
宋憺の書碑は、唐珪禅師碑・唐道安禅師碑がある。
珪禅師碑は夙に佚して伝わらないが、道安禅師碑(第444図)はその原石が存している。但、惜しむらくは明の万暦年間(1573-1615)、雷撃によって両截となり、下截は既に漫濾して字なきに至ったが、未裂以前の拓本は、尚、数百字の多きを存している。

4 鍾紹京と蕭誠

鍾紹京(659-746)は、字は可大,虔州贛縣瀲江清コ郷(今の江西興國)人。開元の初、書家第一を以って称せられた。景龍中、中書令に拝し、越国公に封ぜられ、後に少簷事となり、年80余で卒した。
今日、鍾の書の石刻に存するものは、薛稷と共に題した昇仙太子碑陰の数十字のみである。

昇仙太子碑陰


蒲誠は開元初期の能書家で、荊府兵曹参軍・太子贊善大夫・監察御史・司勲員外郎等に官した。李北海と時を同じくして書名があった。
書碑に、唐南嶽真君碑・唐李適之清徳頌・唐裴大智碑・唐玉真公主受道祥応記・唐襄陽令庫狄履温頌・唐襄州牧独狐冊遺愛頌李昌撰薫誠行書・襄陽牧衛玲遺愛頌・述聖碑頌陰題名・東陽令戴叔倫去思頌がある。しかし今は悉く亡し、僅かに玉真公主受道祥応記の一石を存するのみである。

5 呂向と魏栖梧

呂向(生没年不詳)、字は子回、州の人。呂岌の子として生まれた。幼くして母を失い、父は消息が知れなかったため、招魂して合葬した。外祖母に預けられて陸渾山に隠れ住んだ。草書と隷書を得意とし、一筆で百字を環写することができたため、「連錦書」と称された。
呂向は呂延済・劉良・張銑・李周翰らとともに『文選』の注釈をおこない、五臣注と称された。
呂向の書碑は、唐述聖頌・唐法現禅師・紀聖碑・長安令韋堅徳政碑・寿春太守盧公徳政碑があるが、今は述聖頌のみを存するのみである。

述聖頌 開元13年(725) 述聖頌碑


魏栖梧(生没年不明)もまた開元の時、書名のあった人だったが、後にほとんど知られることなく、清時代に再び脚光を浴びるた。書碑に蕩律師塔碑・善才寺碑(覆師碑)がある。

善才寺碑 開元13年(725)
盧渙の撰、褚遂良に似た書風の魏栖梧の書。
清朝の収蔵家として有名な臨川の李宗瀚の旧蔵品で、「臨川李氏四宝」の1つ。
原碑は宋時代前後にすでに無くなっており、この拓は宋時代に拓された唯一無二の孤本で、現在は所在不明で影印本でしか見ることが出来ない。


6 田頴と范的

田頴は開元・天宝間(713-755)、処士を以って書名のあった人。
書に、雲麾将軍劉元尚墓誌・折衝都尉張希古墓誌・上柱国張公夫人令狐氏墓誌銘がある。

折衝都尉張希古墓誌 天寶15年(756)4月2日立
陝西省西安市出土の墓志で、22行、行22字。墓誌長70p、ェ71p。原石は江蘇蘇州靈岩寺に現存する。
張希古は、皇帝に真心をささげ、職務に励み、過ちをおかさない人物であった。


上柱国張公夫人令狐氏墓誌銘 天寶12年(753)11月4日
国立歴史博物館蔵。長さ54cm、幅54cmで、1970年に丁年仙氏から博物館に寄贈された。


范的もまた処士にして書名がありその書せし碑も少なくなかった。
処士にして書を能くした。書は、天童寺碣・天童寺大白禅師塔碑・阿育王寺常住田碑・龍泉寺常住田碑・右軍祠堂記賛・功徳記がある。今は阿育王寺碑を存するのみ。

阿育王寺碑
縦 約281cm 横 約125cm