<飛白体>

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 飛白体は飛帛体とも呼ばれます。張懐瓘の『書断』に、「後漢の祭邕(ヨウ)が鴻都門で匠人が壁をぬるような刷毛で字を書いているのを見て、創始した」とあります。
 祭邕(132〜192)は後漢時代の書法の大家で、熹平年間(172〜178)に霊帝劉宏から『聖皇篇』を撰書するよう命じられました。『聖皇篇』が完稿し、鴻部門に赴(オモム)いた祭邕は、修復の状況を見て回りました。その時、匠人が壁をぬるような刷毛で字を書いているのを見ました。祭邕は霊感が走るのを感じ、新たな書体の「飛白体」を考案しました。
 南宋の黄伯思が、「糸髪のようなところを白といい、勢いが飛挙するのを飛という」(『東観余論』)と言うように、帚筆を用いて軽く払過して、書かれた字が刷毛の空間のために白いことや、飛ぶような勢いがあることから、飛白という名を得たといわます。
 その後、多くの書家に好まれ、漢・魏時代の宮殿の題署にこの体が用いられました。後漢の張芝も一筆書きの飛白をはじめたといわれ、魏の韋誕・晋の衛恒・王羲之・王献之など、皆、飛白の名手であったといわれますが、今日その遺作は見られません。
 南朝の宋の鮑照(ホウショウ)が『飛白書勢銘』という文章を作り、この体の美しさを称賛しているのを見ると、このころに立派な作品があったと思われます。また、斉・梁時代に流行した「雑体書」の中に、この体がその一種として含まれています。
 斉の蕭子良の『篆隷文体』にも、この体が雑体書の一つとして図示されています。梁の蕭子雲も、蕭の字をこの体を用いて壁書したので有名です。
 その後、唐の太宗や武則天も飛白体を良くしたといわれています。太宗は、貞観17年、三品以上の位の官を招いて、玄武門の賞宴を開きました。その席で、太宗は群臣に自書の飛白書を賜りました。そこで黄門侍郎の劉洎(キ)は、「太宗は羲之の書法を巧みになさいますが、加えて飛白書も善くされます」と述べています。貞観21年にも、太宗は馬周の功労を褒章して飛白書を与ています。太宗はしばしば飛白書を臣下に賜りました。
太宗《晋祠銘題額》 部分
高宗《紀功頌題額》
武則天《昇仙太子碑題額》
 飛白体で書かれた現存する例としては、太宗《晋祠銘題額(シンシメイダイガク)》、高宗《紀功頌(キコウショウ)題額》や《孝敬皇帝睿徳記題額》、武則天《昇仙太子碑(ショウセンタイシヒ)題額》があります。歐陽詢も善くしたので知られていますが、今は見られません。
 日本では空海の《真言七祖像》の祖師の名号(ミョウゴウ)が、飛白体で書かれた最も美しい遺品です。また、空海筆と伝わる《十如是(ジュウニョゼ)》には、筆画の間に鳥獣を取り入れた奇異な例が見られます。大英博物館所蔵の《敦煌文書》の中にも飛白体で題額を書いた稿本があります。これらはみな唐代の遺法です。
 宋代では仁宗が飛白書を書くした第一人者です。明・清代以降には文人たちが飛白書を書いて観賞しているものもあります。清の陸紹曽は飛白に関する文献を集めて『飛白録』を著しています。
 飛白書は、初めは八分体で書かれましたが、篆書・楷書・草書にも、この体で書かれたものがあります。このことから、これは用筆法による違いで、書体の一種とは見るべきものではないとする説もあります。
 飛白書の現存する例は極めて少なく、その意味でも、《尉遲敬徳墓誌蓋》は貴重な資料といえます。

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