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 第3巻 第18章 藤原楚水著 省心書房

第十八章唐時代の書道

一 唐代書道の概観

隋に於いて南北両朝の統一が成ると共に、書道もまた南北両派が渾然として融合混一した。唐は隋を承けて更に演進の一途を辿り、唐代文化の展開と相まって、書道は大いに興隆し、官吏の登用にも書学を課し、書学、書法が盛んに講ぜられ、楷法に於いては特に大いに見るべきものがあった。

二 初唐の三大家

唐代の書迹は往々墨蹟の伝わるものがあり、石刻に至ってはその数甚だ多く、当時の書学の隆盛を窺うべき資料に乏しくないが、就中特色ともいうべきは、石刻文字に書撰者の姓氏を題した一事である。
唐以前の石刻には、書者の名氏を署したものが極めて少なく、唐に入って後は、撰文、書老ともに多くはこれを碑に題し、又書者の署名がなくてもこれを推定し得べきものが多く、従来、時代と書品とのみについて叙述し来りたる書道史も、ここに至って始めて人を主としてその遺迹を求め、或はこれが書体を総合整理して、一貫の叙述を為すことを得るに至った。
乃ち初唐の書道史を飾るべき大家として、まず欧。虞。褚の三大家を挙げざるを得ない。然もこの三大家中、欧・虞の二人は、唐に入ったころ、齢巳に年50を過ぎていた。即ち欧陽詢は陳の永定元年(557)に生まれ、虞世南はその翌永定2年に生まれ、隋の時既に書名が高く、その書せし碑も少くなかった。唐に入るに及んで、名声益々高くなり、虞は貞観12年(638)に81歳、欧は貞観15年(641)85歳を以って卒した。この二人に褚遂良を加えて初唐の三大家といい、更に薛稷を加えて四大家と称するが、褚遂良は欧・虞に比せばはるかに後輩で、隋の開皇16年(596)に生まれ、顕慶3年(658)63歳を以って卒した。薛稷に至っては褚遂良より更に後輩
で、唐の貞観23年(649)に生まれ、開元元年(713)65歳を以って卒した。薛稷は外祖魏徴(580-643)の家にあって虞・褚の書を多く見、鋭意これを臨模し、遂に書を以って名あるに至った。

三 欧陽詢とその書蹟

(1) 欧陽詢の官歴および人物

欧陽詢(557-641)は潭州臨湘の人で、字を信本といった。
本貫は長沙郡臨湘県。父は南朝陳の広州刺史の欧陽紇。子は欧陽ト・欧陽粛・欧陽倫・欧陽通。陳寅恪の研究によると、南蛮の血統。
隋の大業元年(605)、太常博士に任じられた。唐の貞観初年(627)、太子率更令に任じられた。

(2) 欧陽詢の書学と書蹟

1 皇甫誕碑(于志寧撰 欧陽詢正書篆額 無年月) 皇甫誕碑
皇甫誕の功績を称たたえる内容の碑。碑には年月なきも武徳或は貞観の初であろうといわれる。
欧陽詢の楷書作品の中でもとくに、文字の線が細めに彫られている


2 化度寺琶禅師舎利塔銘 李百薬撰 欧陽詢書 (貞観5年11月・631) 陜西長安
この碑は化度寺の僧である邕禅師の舎利塔銘として建立されたもので、欧陽詢76歳の書。九成宮醴泉銘を書いた前年の作である。化度・醴泉の両碑は、ともに楷法の極則と称せられるものである。


3 九成宮醗泉銘 魏徴撰 欧陽詢書 (貞観6年4月・632) 陜西麟遊 syouryou
唐の太宗(598-649)が貞観6年(632)暑さを避けて九成宮を訪れたとき、宮殿の傍らに「醴泉」つまり甘味のある水の泉がわき出たことを記念して建てられた石碑。
欧陽詢の書碑のうちにあって、尤も著名なものの一つで、歴代の評者は皆推して楷法の第一としている。


4 虞恭公温彦博碑 岑文本撰 欧陽詢書 (貞観11年11月・637) 陜西醴泉 温彦博碑
この碑は貞観11年(637)、欧陽詢81歳の書で、皇甫誕、化度、醴泉の諸碑と並称せられるものである。
温彦博碑は、昭陵の陪葬を許された功臣の石碑の1つで、「虞恭公碑」「温虞公碑」とも呼ばれ、原石は陝西省醴泉県に現存している。
温彦博(574〜637)は山西併州祁県の人で、。字は多臨。初めは隋に仕えていましたが、唐になると貞観4年(630)中書令となり、虞国公に封ぜられ、貞観10年(636)尚書右僕射にのぼり、翌年6月に亡くなり、その年の10月、昭陵に陪葬された。
文字は36行、毎行77字に並べられ、本来は2800字に近い長文だったとされているが、かなり以前から碑の下半分の損傷が目立ち、もっとも古い宋そう拓本でさえも文字が明瞭なのは上から20数段のみで、残っている文字数は多いものでも700字程度である。


5 左屯衛大将軍姚辯墓志 虞世基撰 欧陽詢書 (大業7年10月・611)
姚辯墓誌はこれを著録したものは極めて多い。この銘志は、古来、欧陽詢の小楷書として最も有名なものであるが、原石は巳に佚して伝わらず。今、存するものは皆翻刻本である。また誌中に記すところの事蹟は、往往に史と合わざるところがある。


6 右僕射温彦博墓志 (貞観11年・637)
『金石録』にある如く、撰人の姓名はないけれども、世に欧陽詢の書なりと伝わっており、欧陽詢の小楷として古来著名のものである。


7 九歌 (第146-148図)
これもまた欧陽絢の小楷として著名である。


8 黄帝陰符経
末に、貞観6年(632)4月27日、率更令欧陽詢書とある。


9 小字心経 欧陽詢書 (貞観9年10月・635)
これまた欧陽詢の小楷として著名なもので、停雲館・玉煙堂・秀餐軒・墨池堂等に刻されている。


10 尊勝施羅尼呪 (第149図)
停雲館帖に心経の次にこの呪を刻している。心経と筆意酷似し、別に署款はないが、古来欧陽詢の書とされている。


11 黄庭経
これもまた欧陽詢の書といわれるものである。


12 千字文 (貞観15年・641)
欧陽詢の千字文に、草書の断本が伝わっているが、これは楷書であり、又その楷書にも大小二種がある。
書籍名品叢刊掲載の一卷が遼寧省博物館に保管されていることを発表したのは1961年のことであつた。詳しい伝来は説明されていないが、宣統の印があり、近人と思われる藏印が卷首に見えるので、民国間に流出し、近頃民間の收藏家から寄付されたものと思う。
卷にはもとより歐陽詢の署名はない。しかし「律召」を「呂」に作らず、民字を闕筆せず、淵字のみ中画を闕いているのは、唐初のものと審定する一つの理由となり、いかにも美事な歐法であってみれば、歐書に擬せられるのも自然であろう。
今日の厳密な眼からすれば、直ちに歐陽詢の真跡とするのは躊躇されよう。おそらく唐人あるいは北宋の臨本であろう。しかし歐法の特徴をあらわしているので、重要な資料であり、殊に古い千字文をここに新たに加えたのは幸である。


13 唐宗聖観記 欧陽詢撰序並書 陳叔達撰銘 (武徳9年2月15日・626) 陜西整屋
この碑は整屋県楼観の大殿の前にあり、碑首に大唐宗聖観記の六大字を刻し、下に題して給事中都騎尉欧陽詢撰序并□。侍中柱国江国公陳叔達撰銘とある。并の字の下、一字残欠しているが、恐らくは書の字であろう。


14 徐州都督房彦謙碑 (貞観5年3月1日・631) 河南章邱
この碑は『太平寰宇記』・『金石録』を始め、宋以後多く著録している。房彦謙は房玄齢の父である。
欧陽詢の隷書は、唐隷としては勝れたものであるが、これを漢の分書と比較すれぽ見劣りがする。故に隷書を学ぶ範則とはならないが、欧陽詢の楷書を学ぶ手段としては、この碑の如きより手を下すもよかろう。


15 仲尼夢奠帖
欧陽詢の行草書には、仲尼夢奠帖(行)、度尚帖(行)、卜商読書帖(行)、張翰帖(行)、労穆公帖(行)、漢文時帖(行)、殷穆帖(行)、静思帖(行)、五月帖(行)、脚気帖(行)、千字文(草)等があり、各種の彙帖中に刻されている。
仲尼夢奠帖はすべて78字、線の粗細の変化が激しく、躍動感に富んでいる。
この帖は後に楊束里の収蔵に帰し、東里の跋あり。多くの諸家は、皆これを以って欧陽詢の真蹟と見ているが、明の都穆や張米菴は欧陽詢の真蹟たるを疑っている。


16 ト商読書帖
この帖は清初、張翰帖と共に馮銓の収蔵に帰して、快雪堂帖に刻し、後また内府に入り、三希堂帖に刻されている。楊守敬はまた鄰蘇園帖中に刻した。この外、欧陽詢の行草書で、諸帖中に刻されているものは、前記の如く少なくないが、その書風は概して峻抜挺勁である。
欧書に於いては、楷を以って最と為し、隷これにつぎ、行草に至ってはまたこれに次ぐとすべきである。


17 その他の欧陽詢の諸帖

静思帖 kohkosai.com/rinsyo/jun-4/junka-4.htm
 真宋本img061.jpg (502×688)  泉州本img062.jpg (500×688)  肅府本img063.jpg (487×688)


五月帖 kohkosai.com/rinsyo/jun-4/junka-4.htm
 真宋本img064.jpg (500×688)  泉州本img065.jpg (501×688)  肅府本img066.jpg (496×688) 


比年帖 kohkosai.com/rinsyo/jun-4/junka-4.htm
 真宋本img070.jpg (504×688)  泉州本img071.jpg (497×688)  肅府本img072.jpg (497×688)


脚気帖 kohkosai.com/rinsyo/jun-4/junka-4.htm
 真宋本img073.jpg (493×688)  泉州本img074.jpg (501×688)  肅府本img075.jpg (496×688)


張翰帖


何氏書


欧陽詢の書蹟で、前述以外で諸家の著録に見えるものを挙げれば、大要下記の如くである。
詠陳後主詩・稽古稾・漢史節・書乩・書鄭封奕事実・草書策路帖・性慈帖・衛霊公天寒鑿池帖・碧箋四聖草帖・鄱陽帖・慶尚帖・庚亮帖・春雨帖・仲夏帖・望示帖・衛霊公論・強弱論・節封奕事帖・節蘇原事帖・秋風辞・周公帖・鄒穆公帖・斉宣王帖・荀公帖・戦国策帖・子卿帖・戴逵帖・善奴帖・祭祀帖・四時祭祀帖・百家帖・門籍帖・自遣帖・勧学帖・海上帖・隅険帖・祖訥帖・守謙帖・薄冷帖・益部帖・金蘭帖・北遊帖・講書等帖・孝経・院尹帖・盈虚帖・京路帖・途路帖・京兆帖・道夫帖・子奇帖・新序帖・故事帖・雙釣摹欧書・孝経・語箴・簡尺・回京二帖・臨右軍帖・史事帖

四 虞世南とその書蹟

欧・虞・褚のうちでは欧陽詢が最年長,で、陳の永定元年(557)に生まれ、虞世南は一つ年下で永定2年に生まれた。陳から隋を経て唐に入ったころは二人とも年既に50を過ぎ、各々一家を成していたが、唐に入って後その名益々顕れ、虞は唐の貞観12年(638)81歳。欧は貞観15年(641)85歳をもって世を去った。褚遂良は欧・虞二家に比すれば遙かに後輩で、隋の開皇16年(596)に生まれ、唐の顕慶3年(658)63歳まで生存した。
虞世南(558-638)は字を伯施といい、越州余姚の人で、虞茘の子として生まれた。4歳のとき父を亡くし、陳の中書侍郎であった叔父の嗣子となった。兄の虞世基とともに「玉篇」の編者として著名な顧野王のもとで学んだ。その他、文章を徐陵に学ぶなど、当時の江南文化の粋を身につけた。陳のとき、文帝に学識を認められ、建安法曹参軍、西陽王友になった。陳の滅亡後は、兄の虞世基と一緒に隋の都である長安に行き、ともに才能を評価された。隋の煬帝も兄弟の才能を認めたが、虞世南の厳正な性格を嫌い、煬帝の下ではあまり出世することが出来なかった。
のち、太宗に仕え、弘文館学士、秘書監などに任じられた。卒して礼部爾書を贈られ、永興公に封ぜられた。秘書監は宮中の図書を掌る官で、わが国の図書頭といった如き地位である。弘文館では、欧陽詢とともに書の指導にあたった。
書学については、書を王羲之の書をよくした智永禅師に学び、楷書をよくした。また、王献之の書法も習得したといわれている。虞世南の書は、おだやかで暖かみがあり、ひかえめで、その書風は「君子の書」と称された。
書の作品としては孔子廟堂碑が著名。文集に『虞秘監集』がある。

1 孔子廟堂碑 孔子廟堂碑

一 孔子廟堂碑の唐石再刻説
孔子廟堂碑は虞世南が勅を奉じて撰文し、併せてこれを書いたが、碑に建碑の年月が無く、
この碑は武徳9年(626)に太宗の命を奉じ、貞観7年(633)に碑が成って墨本を進呈したその期間、即ち虞世南の69歳より76歳までの間のいずれかで書かれたものとしか推定のしようがない。
この碑の原石は建立後まもない貞観中(627-649)に火に燬け、僅か数十本の拓本を取っただけで、この原石も焼けてしまった。
武后の時に重刻し、これもまた唐末に亡佚したとの説があるが、今の翻刻本には皆刻していない。

二 唐の原石本と陜西本
宋代初に至って、永興郡(長安)節度使の王彦超が唐の原石の拓本を基に三刻して、北宋の第一代太祖の乾徳年間に西安学府にこれを建てた。
この碑が現在碑林にあるもので、この拓本を《陜西本》と呼んでいる。碑文の最後に王彦超の官職名が2つ、永興郡節度使と中書令とある。そこで、王彦超がこの2つの官職を兼ねていた時期から考えて、北宋の太祖の建隆年間末か乾徳年間初(〜963〜)に再建されたとされている。

三 陜西本と城武本との優劣
城武本は元の至元の間(1335-1340)に定陶河の岸が決裂して出土したが、刻石の時代は明らかでない。
明に至り、山東の城武学営に置かれた《城武本》と呼ばれるものがある。これを《東廟堂》という。
そこで《陜西本》を《西廟堂》とも呼んでいる。
北宋時代には唐の原石の拓本はすでに希で、一般には見られなくなっていた。そこで宋以後はこの復刻本が、虞世南の楷書の代表作として通行した。


2 破邪論序
破邪論序は、越州石氏本を始め、停雲館。玉烟堂・秀餐軒・嶽雪楼・等の彙帖中に刻入し、虞世南小楷の代表的のものとされ、明代までその真蹟が伝わっていた。
破邪論序は、潭帖・越州石氏帖等に刻されたが、宋人の著録には見えない。
或は偽作説が正しいかと思うが、その書は虞世南に酷似している。


3 汝南公主墓誌銘
汝南公主は唐の太宗の第三女で、早世せられた。この墓誌銘は、虞世南が撰文して刻したものであるが、その草藁の真蹟が世に伝わり、また之を彙帖中に刻したものも少なくない。貞観10年(636)11月16とあり、世南79歳の書ということになる。しかし今、世に伝わっているものが果して虞世南の真迹であるか否かは頗る疑わしく、これを米帯の臨書であろうという説もあるが、伝世既に久しく、虞の行書の面目を十分窺い得るべきものである。
この真迹は『宣和書譜』にも収録され、その後諸家の逓蔵を経、明に至って王世貞の収蔵に帰し、清朝に入って後は畢涜に帰し、陸心源、端方等に逓蔵され、端方はこれを完顔景賢に贈った。収蔵印や題跋が多くある。


4 臨蘭亭叙 図解書道史(2-15 図解書道史末尾)
蘭亭叙には欧陽詢、褚遂良二家の臨本があり、定武蘭亭は前者の系統に属し、神龍本、張金界奴本は後者から出でたという説は、何人も知るところであるが、虞世南の臨本は、東書堂帖に見えるのみで、単行本を見ない。唯、乾隆の内府に刻した蘭亭八柱帖にはこれを収めている。この本は巻首に本立堂鉤勒虞世南本とあり、依って虞撫本と称されている。

以上の外、行草体の積時帖が余清斎、鬱岡斎等に見え、また淳化閣帖、玉烟堂帖・墨池堂帖等に見えるものも若干ある。

五 褚遂良とその書蹟

1 褚遂良の家系およびその人物
褚遂良は初唐三大家中にあって尤も後輩で、欧陽詢が陳の永定元年(577)に生まれ、虞世南はその翌永定2年に生まれ、この二人が陳から隋を経て唐に入ったころは、いずれも既に50歳を過ぎていた。褚遂良は隋の開皇16年(596)に生まれ、唐に入ったころはわずかに20歳を出たばかりであった。
褚遂良は褚亮の第二子である。褚亮は杭州の銭塘の人で、字を希明といい、本籍は陽雀(今の河南禹県)の人であったが、後に杭州の銭塘に徙居した。
大業13年(617)、薛挙が自立すると、その下で通事舎人を勤めた。武徳元年(618)、父とともに唐に降り、秦王府(太宗即位前の幕府)の鎧曹参軍(武器の管理役)となった。貞観10年(636)、秘書郎から起居郎となり、また虞世南が死去したことで魏徴の推薦により書道顧問となった。
貞観18年(644)、諫議大夫から黄門侍郎へと進み、太宗に深く信頼された。太宗の後継問題に際しては李治(後の高宗)を推薦して、皇太子となった李治の傅役を任された。貞観23年(649)、太宗が崩御するに際しては高宗を補弼するよう遺詔を賜り、どのような事があっても死刑は免ずると言う権利を得た。高宗即位後、高宗の信頼も受けて中書令から尚書右僕射へと累進し、長孫無忌・李勣・于志寧と共に重鎮となっていた。
しかし、永徽6年(655)に高宗が武照(武則天)を皇后に立てることを建議し、褚遂良は強硬に反対したが、武則天と高宗により押し切られた。このことにより武則天の恨みを買い、死刑に処されかけたが、遺詔により死刑は免ぜられた。その代わりとして潭州都督、桂州都督と左遷され、最終的に愛州(現在のベトナム中部、タインホア省)にまで流され、そこで死去した。

2 褚遂良の書学およびその書蹟
六朝期から発展しつつあった楷書を高度に完成させた南派の虞世南・北派の欧陽詢の書風の特徴を吸収・融合しながら、それを乗り越えて独自の書風「褚法」を確立した。特に晩年の『雁塔聖教序』は楷書における最高傑作の一つとされ、後の痩金体につながるなど後世に多大な影響を与えた。一般に力強さが特徴的な北派に属するといわれるが、結体は扁平で安定感のある南派の性質を併せ持っており、従来からの帰属論争はあまり重要性を持たないように思われる。また王羲之の真書鑑定職務についており、その書をよく学んだと思われる。40代における『伊闕仏龕碑』や『孟法師碑』には隷書の運筆法が見られ、そして線は細いながらも勁嶮・剛強と評される一方で、50代における『房玄齢碑』や『雁塔聖教序』では躍動的で流麗な作風に一変した。
遂良の書は結体閑雅で悠揚迫らず、変化の多様と情趣の豊かな点では初唐の三大家の中でも最も優れている。
褚遂良の書迹の『宝刻類編』に見えるものは、枯樹賦、三龕碑、孟法師碑、五言帝京篇、湖州刺史独孤延寿碑、晉州刺史裴芸碑、贈太尉房玄齢碑、三蔵聖教序記、草陰符経、房玄齢神道碑、小字陰符経、題度人経変相の諸刻がある。この外、随清娯墓誌銘(第跚図)、哀冊文(第泌・躅図)、倪寛賛(第跏・泌図)、行書千字文(第嬲図)、等が世に伝わっている。

1 伊闕仏龕記 (貞観15年・641) 河南洛陽 龍門石窟 -1
この刻石は、巌石を磨して刻したいわゆる磨崖刻で、正しくは碑と称すべきではない。伊闕や龍門の造像は、魏が洛陽に遷都した次年より、雲岡石窟に倣って開鑿を始めたもので、爾後、歴代その刻が続行された。伊闕仏龕記もその一つで伊闕左崔北端の賓暘洞、即ち今の潜溪寺、旧くは霊巖寺といわれたところの境内の磨崖に刻されたものである。この刻石は、褚遂良の書碑中最も大字で、貞観15年(641)、46歳の書である。
伊闕仏籠記は褚遂良壮歳の書で、欧・虞を学んで尚未だ化せざるところがあり、後の雁塔聖教序とは大いに異なった趣がある。


2 孟法師碑 (貞観16年・642) 江西臨川
この碑の原石は夙に佚し、その孤拓本が江西の李宗瀚の家に収蔵された。所謂臨川四宝の一であるが、この本は往にわが国に舶載し、今三井聴氷閣の蔵弃するところとなっている。
この碑は前の伊闕仏寵記を書いた翌年の作であるだけ、その書風は非常によく似たところがある。即ち両者とも尚、欧陽詢の影響から脱し切れない感がある。


3 雁塔聖教序 序太宗御製・記高宗御製 (永徽4年4月・653) 陜西長安 大慈恩寺・大雁塔-2
雁塔聖教序は、褚遂良の書蹟中でも尤も熄赫たる劇蹟であり、その代表的傑作であることは古来何人も認めて疑わないところである。雁塔聖教序は正しくいえば太宗の序と、高宗の記とより成り、序と記とは分ちてこれを二石に刻し、序は右より起して左方へ向い、記は左方より起して右方へ向って書し、今爾、西安慈恩寺の雁塔下に箝麗されている。
この碑は前記の伊闕仏籠や、孟法師よりは10余年後の書で、序は永徽4年(653)10月、記は同年の12月に書し、一時に書いた文でなく、字も序はやや小さく、記はやや大きい。また褚遂良の題銜も、序には中書令といい、記には右僕射となっている。


4 同州聖教序并記 (龍朔3年6月・663) 同州聖教序碑
褚遂艮の聖教序記の碑は、雁塔、同州の外、尚数刻あった。褚遂良には聖教序は行書もあったと思われるが、その伝本を見ることはできない。今は雁塔及び同州の二刻が最も著名である。雁塔と、同州の関係については、雁塔が真蹟からの刻であり、同州本はまたそれからの翻刻であろうと思われる。


5 房玄齢碑 陜西醴泉 房玄齢碑
この碑は昭陵陪葬中の一つであるが、宋の時既に漫濾甚だしく、立碑の年月は明らかにしがたい。
房玄齢は貞観22年(648)に卒しているからこの碑がその卒年に立てられたものとすれば、前記の雁塔聖教序よりは5年前、褚遂良が53歳のときということになるが、王昶の『金石萃編』は、永徽3年(652) 57歳の書なりと推定している。
存字多からずとはいえ、雁塔聖教序を学ぶものは、又この碑をも併せ学ぶことが必要であろう。


6 倪寛贊
倪寛贊の真蹟は今尚、現存している。
倪寛贊の真蹟は、宋末より元・明時代にわたり諸家の間に逓蔵され、後に清室内府の所蔵に帰し、乾隆御覧之宝、嘉慶御覧之宝、三希堂精鑒璽、宣統御覧之宝等の諸璽が鉛せられている。


7 枯樹賦
賦は北周の庚信の作である。帖の末尾に貞観4年(630)10月8日、為二燕国公一書とあるのみで、書者の名は明記されてないが、古来褚遂良の書と伝えられている。貞観4年(630)は褚遂良の35歳にあたる。
今この真蹟は所在を知らず、宋の時の単刻本も見ることができない。ただ彙帖中にその翻刻を見るのみである。
枯樹賦は玉煙堂帖、戯鴻堂帖、聴雨楼法帖、隣蘇園帖等に刻されている。近時は石印本もあるが、これは彙帖中から翻印したものである。更に楷書のものがあって褚遂良の名を題しているが、後人の仮託で、言うに足らぬものである。


8 太宗哀冊
太宗哀冊は、貞観23年(649)、中書令(皇帝の秘書官)であった褚遂良が撰文・草稿したと伝えられている56行、685字の楷書・行書の作品。
この文章は、「唐文粋」「文苑英華」「唐大詔令集」などに収録され、その書は「戯鴻堂帖」「鬱岡斎帖」「秀餐軒帖」「鄰蘇園帖」に刻入されている。
哀冊とは、崩御した天子や皇后の功徳をたたえた韻文(一定の韻律をもち、形式の整った文章)で、「哀策」とも書く。
太宗哀冊は、筆が豊かで温かみがある。米&$33470;の臨書ではないかと考えた人がいたほど、米&$33470;に似ています。運筆は早く、筆圧は一定。行書は動きが少なく落ち着いており、高い品位を感じさせる。楷書には堅苦しさが無く、筆力や充実感がある。


9 陰符経
褚書と伝えられる陰符経に、小楷と草書の二種がある。草書には終に貞観6年(632)9月28日、臣遂良奉敕書50本と署し、小楷書には大唐永徽5年(654)歳次甲寅正月初5日、奉旨造、尚書右僕射・監修国史・上柱国・河南郡・臣褚遂良。奉旨写120巻と題している。
陰符経が果して褚遂良の書であるか否かは頗る問題であるが、旧くはこれを信ずるものが多かった。


10 千字文
褚遂良の千文は世に数本ある。一本は字が寸に近く、末に龍朔3年(663)と署したれば、その褚書でないことは弁を俟たない。また小字本で渤海蔵真帖中に刻したものがあるが、その真偽は判定しがたい。また一本は、末に、永徽4年秋8月26日中書令・褚遂良・奉為燕国于公書と題せる楷書千文で、これは多く褚の真蹟と見られている。この書風が柳公権に近いところの多いことも否定出来ないようである。


10 千字文
褚遂良の千文は世に数本ある。一本は字が寸に近く、末に龍朔3年(663)と署したれば、その褚書でないことは弁を俟たない。また小字本で渤海蔵真帖中に刻したものがあるが、その真偽は判定しがたい。また一本は、末に、永徽4年秋8月26日中書令・褚遂良・奉為燕国于公書と題せる楷書千文で、これは多く褚の真蹟と見られている。この書風が柳公権に近いところの多いことも否定出来ないようである。

12 随清娯墓誌銘
この墓誌、多くは著録に見えないが、宋の時既に刻本があり、鬱岡斎帖はそれからの摹刻である。
多くの諸家が此の墓誌銘の褚書だと疑わないが、その真偽は頗る疑問としなければならない。寧ろ偽託と見るべきものであろう。