金井 烏洲 かない うじゅう
   

そのままと 聞けど分からぬ そのままに
分からぬなりが ほんのそのまま
「そのままと 聞けど分からん そのままが よくよく聞けば ほんのそのまま」
古来から詠まれている歌です。
「ほんのそのまま」とは、「念仏もうすそのまま」のことだそうです。
「橋○○の需に応える」としてありますから、
上の歌をもじって応えたものと思われます。
137p×33.8p

寛政8年(1796)生〜安政4年(1857)歿
 華竹庵万戸の次男として生まれる。本名は左仲太、通称は彦兵衛。諱は時敏。号は烏洲・小禅道人・獅子吼道人・朽木翁・呑山人・白沙頓翁など。従五位。画家、俳人。
 父の華竹庵万戸(1770−1832.5.18)は、本名を金井文八郎といい、通称は彦兵衛。島村の俳人で、栗庵門下の四天王の一人。養蚕長者(豪農)。妻は那波郡下道寺の医家多賀谷養元の娘春栄。春栄の従兄は能書家の多賀谷向陵で江戸に住む。文化12年(1815)、莎邨のため、呑山楼を築いた。文政8年(1825)、芭蕉碑を建立。その頃、華竹庵を築いた。
 烏洲は文政2年(1819)、江戸から帰り、武州新戒村の福島氏の娘、紀伊(1803−50)を妻とした。文政13年(1830)、前橋竜海寺の奕堂禅師に参禅し、小禅道人、獅子吼道人と号した。
 天保2年(1831)、高野長英が呑山楼に来た。入れ違いに渡辺華山も来た。その年の暮れ、梅陵と共に西遊する。天保5年(1834)、田崎草雲(1815−98)が入門した。天保11年(1840)頃、草津に遊湯。
 天保7年(1836)頃より伊勢崎藩への莫大な貸金が貸し倒れとなり、破産状態となる。天保13年(1842)、江戸を追われた寺門静軒を呑山楼の客として迎える。嘉永6年(1853)、幕吏の嫌疑をさけ、四男の之恭(金井金洞)を連れて半年間、日光に隠れた。
 早くから尊王の志を抱き高山彦九郎に私淑する。頼山陽らと交流し、ますます勤皇の志を固めた。晩年は中風をわずらいその後の画を風後の作という。
 「獅子吼道人」の下に、白文の「獅子吼主」、朱文回文の「釋了義印」の落款印が押されている。歌の内容からしても、竜海寺で参禅した際に釈了義と名乗ったものと思われる。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%BA%95%E9%B3%A5%E6%B4%B2
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