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 第5巻 第22章-1 藤原楚水著 省心書房

第二十二章 清時代の書道

一 清代概説
ツングース系の女真が1616年、中国の東北部(満州)に建国した後金が、1636年から国号を清に改めた。
清は、1643年順治帝(廟号は世祖、在位は1643〜1661年)が、わずか5歳で第3代皇帝となり、1644年、6歳で北京入城を果たし、都を盛京から移し、李自成の乱で反乱軍が北京を占領した。明は最後の皇帝崇禎帝が自殺して滅亡した。
順治帝は、始め執政ドルゴンに政治を委ねたが、14歳で親政を開始し、科挙の実施、満洲文字と漢字の併用などで清朝の中国支配の基盤を作った。その子が康煕帝。

二 清代の書学
世祖(順治帝)は嘗って黄庭経・遺教経を習い、時にその書をもって諸臣に賜い、聖祖(康熈帝)は則ち董其昌の書を酷愛し、これによって挙世殆んど香光一尊となれるが如き、高宗(乾隆帝)また尤も書をよくし、特に淳化軒を建てて淳化閣帖を蔵し、于敏中に命じて摹勒上石させ、これを諸王公卿に分賜した。帝が董其昌の書が繊弱で飽き足らず、趙子昂の書を好み、書風もまたこれによって変移した。
清朝の書学もまた他の法律、制度、美術、文芸などと共に明朝を承継したもので、その初期にあっては、全く帖派の範囲内を出なかったが、その中期に於ける考証学派や、金石学の興起に伴い、書道に於てもまた碑派の勃興が見られ、ここにその面目を一新した。

順治帝筆蹟 康煕帝筆蹟 乾隆帝筆蹟


初期
王義之を主とする法帖が全盛の時期である。
明代の末期から清代にかけて活動を続けた王鐸は清代書家の筆頭といえる。
清の第4代皇帝である康熙帝は明の末期の代表作家である董其昌の書を好んでいたため、この時期は董其昌風の書が一般に流行した。
康熙帝の後に即位した第5代皇帝である雍正帝の時代の書道界で最も活躍したのは、王澍と張照である。

隆盛期
清朝の経済が最も成長した時期の皇帝である第6代皇帝の乾隆帝は趙孟頫の書を好んだためこの時期趙風が流行した。
帖学と碑学が重なり合ったこの時期に、清朝を代表する大家が多数輩出されている。
帖学派の最高峰である劉墉、碑学派のケ石如、碑学と帖学両派の翁方綱などであるが、特にケ石如の功績は大きく、清末の篆書・隷書の名手(呉熙載・楊沂孫・趙之謙・呉昌碩など)の指標となった。

後期
第8代皇帝である道光帝以後のこの時期は、康有為の碑学に関する書『広芸舟双楫』の影響の中、書の表現は多様化した。
各体にわたって情緒豊かな作風を打ち立てた何紹基はこの代表であり、ケ石如、趙之謙とともに碑学派の3代表とされている。

三 清代の書家とその書蹟

1 黄道周 万暦13年2月9日(1585年3月9日)-隆武2年3月5日(1646年4月20日)
字は幼平、号は石斎。漳州府漳浦県銅山(福建省)の出身。
官職についていたが、1637年明が滅び、明の復興に努めるが、清軍に捕らえられ南京に連行されたが、降伏しなかったため、翌年殺された。
書法は鍾繇に師事し、楷書・行書・草書が特に優れていた。特に小楷に定評がある。もともと長条幅の連綿行書を得意とし、厳正な性格による気骨の強さを感じさせる。
崇禎帝の寵愛を受けた楊嗣昌を弾劾し降格された黄道周は、さらに皇帝の怒りに触れ、崇禎13年(1640)八月、投獄された。15ヶ月に及ぶ獄中で、黄道周は楷書で120本の孝経を書写した。

孝経 七律絶句(石城寺諸友過集) 五律詩軸(済寧聞警有) 七言絶句(山中雑詠) 自書文册


2 王鐸 万暦20年(1592)- 順治9年(1652) 千字箴

一 王鐸の経歴および人物
字は覚斯、また覚之、嵩樵・十樵・石樵・癡庵・煙潭漁叟などと号した。諡は文安。河南府孟津県(河南省孟津)の生まれ。倪元璐と黄道周は、王鐸と同年の進士で、ともに翰林院に入り学問を学んだ。官は礼部尚書に至った。
明滅亡の危機に、倪元璐や黄道周など国に殉じたものが多いのに対し、王鐸は要職にありながら政局に疎く、無能の官僚と誹謗され、また、敵に降って優遇されたため、弐臣とよばれて白眼視された。しかし、王鐸の学問人物が非常に優れ、王鐸の勢力下に有能な人たちが多く、清朝の強い要求があったのが清に仕えた理由といわれている。

二 王鐸の書学
王鐸は、10歳前後から書道をはじめ、数年後には「集王聖教序」に取り組んだ。
その後、米芾も習ったが学書の中心は二王で、王献之の一筆書の書風をさらに徹底させ、数十字にわたる連綿書を長条幅に書き、独自の書風を生んだ。また、鍾繇風の小楷や顔真卿風の楷書も評価が高い。
楷書は鍾繇・顔真卿、行書は王羲之・王献之を習った。楷書による評価も高く、行草の董其昌・楷書の王鐸とも評された。
天賦の才能に恵まれ、その才におぼれることなく、晋、唐の書法を1日臨書し、1日創作するという態度を終生続けたという。
その研鑽は生涯続いた。そして、王献之の一筆書の書風をさらに徹底させ、数十字にわたる連綿草を長条幅に書き、独自の書風を生んだ。

三 王鐸書の特色
王鐸は二王の尺牘を中心に多数の臨書を残している。よく知られるのは長条幅の作品だが、おおむね臨書の作と自運の作に大別できる。彼の臨書は意臨に徹しており、原本とはまるで異なった極度の誇張と変形が行われている。にもかかわらず、原本の持つ味を良く表しているのは、二王の書風がよほど彼に滲み込んでいたと見える。そして、その作品には二王・顔真卿・米芾などの書法が息づいている。

四 王鐸の書蹟

擬山園帖

王鐸一人の書を集刻したもので、すべて十巻。
この帖は跋文によれば、王鐸の死の一年前、即ち清の順治八年辛卯(1651)にその事に着手はしたが、王鐸自らすべてを編次したものではなく、その後人があまねく遺墨を天下に捜訪し、つぎつぎに之を摹勒上石し、順治16年己亥(1659)に至ってその工を竣り、その間実に9年を費したとのことである。

草書詩書巻 東京国立博物館蔵
崇禎15年(1642)、張培(字は抱一)が湖畔に宴席を張り、船を浮かべて雅会を催した際に、王鐸が自作の五言律詩を五首揮毫したもの。巻末では絖本が尽き、その後ろに紙本を継ぎ足した長巻である。清朝に降らない51歳の作。

臨褚遂良尺牘
淳化閣帖中の褚遂良の家姪帖を臨書したもので、原本とは書体も書風も全く異なり、また長条幅に見える王鐸の行書とも趣を異にする。淳化閣帖にある虞世南や褚遂良の尺牘を書いて巻末に「古に倣って、小王の意を用う」と書いてあるのは、虞世南や褚遂良を臨書しながら王献之の書風で書いているという意である

草書詩巻

行書詩巻

臨褚遂良尺牘

尺牘

唐人帖

臨閣帖第二張芝書巻

淳化閣帖第五古法帖

唐詩帖

褚摹本蘭亭叙

臨王羲之瞻近帖

友人鄺子道祝峰之勝 臨王獻之王羲之帖 寄金陵天目僧 臨王曇首昨服散帖 容易語


3 孫承沢 万暦21年(1593)-康熙15年(1676)
孫承沢は字を耳伯といい、北海と号し、また退谷ともいった。山東益都(山東寿光県)の人。明清二朝に仕えた弐臣の汚名を着ながらも書画収蔵家として名を残し、著書の庚子銷夏記は当時の書画流通の動向を伝える重要史料となっている。

4 金俊明 万暦30年(1602)-康熙14年(1675)
金俊明は字を孝章、耿菴と号し、別号を不寐道人といった。江蘇省蘇州呉県(蘇州市呉中区及)の人。明の諸生。明亡びて後は隠居。卒するに及び門人私諡して貞孝先生といった。
俊明は詩古文を工にし、かねて書画を善くし、尤も墨梅に長じ世に三絶と称した。

5 傅山 万暦35年閏6月19日(1607年8月11日)-康熙23年6月12日(1684年7月23日)
初名は鼎臣、字は青竹。のちに名を山、字を青主と改めた。号は嗇廬・朱衣道人・石道人・隨氏E六持・丹崖翁・濁堂山人・青羊庵主・不夜庵老人・酒道人・酒肉道人・僑黄老人・五峯道人・龍池道人・観化翁など。太原府陽曲県(山西省)の人。
代々学者の家柄に生れ、幼少の頃から才能に恵まれ、長じて黄宗羲、顧炎武などの碩学と親交した。明の滅亡後、清朝への反抗の意志を示し、明の残党と関係があるという嫌疑で牢獄につながれる経験もある。康煕の時、官吏に推挙されたが、病をもって固辞し志節を全うした。
画人としては山水、墨竹を得意とし、書家としては隷書と金石の篆刻に通じた。傳山は自重してみだりに筆を執らず、一字千金と貴ばれた。詩文にも巧みで霜紅龕集という詩集がある。

行書小楷書

雑書冊

詩巻(五言古詩) 遊仙詩十二屏の12 杜甫詩漫成第二首 詩軸(七絶) 王羲之知欲東帖


6 帰荘 万暦41年(1613)-康熙12年(1673)
字は玄恭、恆軒と号した。崑山(江蘇省)の人。曾祖父は文章家の帰有光。
順治2年(1645)、清朝政府軍の江南支配が始まると、帰荘も親友顧炎武らとともに郷里江蘇省崑山で抵抗の闘いに立ちあがった。陥落後の悲惨な情況はその詩編にも直写されている。また歌詞の形をとった万古愁曲では、投降し迎合した文官に対する恨みと一民間人として生きる決意を述べるが、事実その後半生はいわゆる明の遺民として徹した。

7 顧炎武 万暦41年5月28日(1613年7月15日)-康熙21年1月9日(1682年2月15日)
本来の名は絳、字を忠清という。清代以後に名を炎武、字を寧人と改め、号を亭林とした。蘇州府崑山県千墩(江蘇省蘇州市崑山市千灯鎮)の出身。名家に生まれ、清軍南下に際して抵抗運動を行う。その後も家の没落、筆禍事件に連座して投獄などを体験、朝廷の招聘を死を覚悟で拒絶、住居を定めず一生を旅寓に終えるなど数奇な運命をたどった。
旅途や旅寓で学問著述をして、日知録・音学五書・天下郡国利病書などの名著を残し、黄宗羲、王夫之とともに清初の三大思想家に数えられる。旧来の観念論的な性理学や心学を批判し、同時代の資料を重んずる実証的な経書研究法を樹立し、考証学の開祖ともいわれる。
炎武の学問は、明朝滅亡の危機意識を内に秘めて政治社会に有用なものだけを研究するという態度を堅持するものであり、「天下を保つのは、賤しい匹夫にも責任がある」とのことばは、清末の変法派にも愛唱された。

8 梁清標 万暦48年(1620)-康熙30年(1691)
梁清標は河北正定の人。字を玉立、一字蒼岩といい、蕉林と号し、別に棠村、冶溪漁隠とも号した。明の崇碵十六年(1644)の進士で庶吉士に官した。清に入りて後は原官に復し、尋いで編修を授かり、侍講学士、戸部尚書に累遷し、官、保和殿大学士に至った。
また、古書画を好んでおり鑑別にも打ち込み、さらに収蔵家としても知られ、この収集した貴重な作品を、当時の名工尤永福が模し、秋碧堂帖を刻した。

9 鄭簠 天啓2年(1622)-康熙32年癸酉(1693)
鄭簠は字を汝器、谷口と号し、江蘇上元(江蘇省)の人。清代碑学運動の先声と称される。
生涯官職に就くことはなく、家業を継いで医業に携わったと言われている。若い頃は福建省の文人・宋珏に隷書を学んだが、古書や原本の重要性に気づき、それからは漢碑を学び始めた。中国北部の華北各地にある碑版の研究のため自ら各地を周り、漢碑の考証に打ち込み、同時に拓本の収集にも力を注いだ。中でも明時代に出土した郃陽令曹全碑や衝方碑などを、特に学書として取り上げた。のちに清時代には学問が発達し、漢碑を深く学ぶようになり隷書も大いに注目されたことで、鄭簠はその第一人者として名を馳せた。

七絶立軸

冊頁



朱熹卜居中堂

五言聯

侍宴安樂公主山莊應制 七律条幅 七言聯 王建上李吉甫相公 婁壽碑


10 笪重光 天啓3年(1623)-康煕31年(1692)
号は始青道人、江上外史、君宣、鬱岡掃葉道人などと称し、江南句容東荊(江蘇句容白兔鎮茅莊村)の人。
29歳の時に科挙試験に及第すると、司法を司る刑部から監察官・御史となり、清時代の政治家・余国柱を弾劾している。晩年辞職して郷里の五洲山や句曲山などに隠居して道教に親しみ、書画に耽り、蘇軾、米芾を学んだ行草書や小楷に優れた。明末清初に流行した連綿草の流れを受けた。書は館閣体(朝廷の公式な書体)に属するが、それを変化させたものを得意とした。姜西溟、汪退谷、何義門らと合わせて帖学四大家と称される。

五言律詩宿山寺

千秋再盛事記

行草書五律詩軸

行書五律詩軸

秋日下榻毘陵氏止園

壽公化行書詩

行書七絶詩軸

行書七律詩軸

行書七律詩軸

草書五言律詩軸

行書詩文軸

行書擬白楽天放歌行軸

小楷嘉州集

七言絶句

行書五言詩扇面

行書五言詩扇面 行書自作七言詩軸 行草書法作品 行書七言聯 行書七言詩立軸


11 厳縄孫
字を薫友といい、江蘇省無錫の人。縄孫は読書して強記を務めるも学ぶところは終身忘れなかった。文章詩詞を工にし、又、書画を善くした。

12 葉封
字を井叔といい、慕盧、退翁と号した。浙江省嘉善の人だが、後には湖北省黄陂に家した。父の長青は節に殉
じ、家は極めて貧であったが、書を樊山の下に読み、刻苦し、博学鴻儒の試に応じたが落第し、て武昌の樊湖に家し、漁釣を以って自ら娯んだ。詩格雅健で、世に重んじられた。篆隷を工にした。

13 林侗
字を同人といい、来斎と号した。福建省侯官の貢生(秀才で国子監で学ぶことを許可された者)で、康煕中尤淞教諭となった。隷書を工にした。

14 姜宸英 崇禎元年(1628)-康煕38年(1699)
字は西溟、号は湛園・葦間等。浙江省慈渓の人。70歳で進士に及第し、探花(第3席)の好成績だったが、官士となり副試験官の任に就いていた際に事件が起こり、投獄され、獄中で没した。
詩文にすぐれ、特に散文に雄健な気風をもち、清初の古文の作家として高名。書は、董其昌のほか米芾や魏晋時代の書法を学び、康熙年間の四大家に数えられた。朱彝尊、厳縄孫とともに江南の三布衣と称えられた。

臨二王尺牘帖

祝杜い翁詩(七律)

草書七絶

與老親翁書

臨王羲之十七帖軸

跋張然山水冊

臨米芾帖立軸

題許力臣小像

臨王羲之帖

與老親翁書

節臨褚遂良家侄帖

節臨王羲之蘭亭帖

臨唐太宗李世民屏風帖

行書五律中堂

小楷洛神賦

王湾次北固山下詩扇 行書扇面 臨王献之帖 優游・恬淡(五言聯) 春游詩(七絶)


15 朱彝尊 崇禎2年(1629)-康煕48年(1709)
字は錫鬯、竹垞と号する。他の号に、(酒+區)舫・金風亭長・小長蘆釣魚師などがある。先祖は蘇州呉江県の人だったが、明の景泰4年(1453)に嘉興府秀水県(嘉興県)に移住している。
初め仕官せず各地を遍歴しつつ学問に励み、のち翰林院検討として『明史』編纂に従事、康煕31年(1692)辞職して帰郷し、余生を著述と自適とに過した。大著『経義考』 (300巻) は、歴代の経書の沿革存亡を記したもの。詩は気骨ある風格で、長編の佳作があり、王士禎と南朱北王と並称された。詞はいわゆる浙西詞派の開祖とされ、巧みな修辞と用典で、詠物詞にすぐれた。

16 顧藹吉
字は腕先、南原、天山と号した。長洲の人。著すところに隷弁八巻がある。1718年刊で、漢碑に見える隷書のさまざまな字体を集めて韻目順に配列し、解説を加えた、書の代表的な辞典である。

17 王士禎 崇禎7年閏8月28日(1634年10月19日)-康熙50年5月11日(1711年6月26日 
字は貽上。号は阮亭・漁洋山人。諡は文簡。済南府新城県の出身。本来は士モフ名であったが、死後、雍正帝が即位するとその諱の胤モ避けて士正と改名される。のち、乾隆帝の治世に士禎の名を賜った。号を以て王漁洋と称されることも多い。
文人としても頭角を現わし、朱彝尊とともに南朱北王と併称された。康熙43年(1704)、部下の疑獄事件に連座して官を辞め、のちに天子の恩赦によって再度官途についたが、ほどなく卒した。

18 宋犖 崇禎7年(1634)-康熙53年(1714)
河南省商邱の人。大学士宋権の子。字は牧仲、号は漫堂・西坡・綿津山人・西坡老人等。吏部尚書。蘭竹画を能くした。また収蔵家として知られる。

19 万斯同 崇禎11年(1638)-康煕41年(1702)
字は季野、号は石園。浙江省鄞県(寧波)の人。初め兄の万斯大とともに黄宗羲の教えを受けた。清朝から招かれたが仕官を欲せず、官につかぬまま明史館で明史の編纂に力を尽した。また徐乾学に招かれ、読礼通考の編纂にも協力した。

20 陳遷鶴
字は声士、介石と号した。晉江の人。康熙24年(1685)の進士で左庶子に累官した。

21 高士奇 順治2年(1645)-康煕43年(1704)
字を澹人といい、瓶廬と号し、又江村と号した。浙江省銭塘の人。科挙の地方試験に何度か挑戦したがうまく行かず、文を売って生計を立てていた所を、たまたま康煕帝に目をかけられ礼部侍郎にまでいたった。詞をよくし、絵画の鑑賞家としても有名。

22 王鴻緒 順治2年(1645)-雍正元年(1723)
初名は度心、字は季友。号は儼斎、横雲山人。婁県(江蘇省松江県)の人。康煕12年(1673)の進士。翰林院編修から侍講となり、同21年明史編纂の総裁となる。のち収賄事件で失脚したが、やがて工部尚書に返り咲き、同 47年戸部尚書となった。しかしまもなく皇子の擁立運動に巻込まれて引退し、郷里にあって明史の編修に従事し、雍正元年(1723)明史稿を完成した。

23 潘耒 順治3年(1646)?康熙47年(1708)
原名は棟呉、字は次耕、稼堂、江南呉江縣(江蘇省呉江市)の人。

24 陳奕禧 順治5年(1648)-康熙48年(1709)
号は夢墨や香泉、葑叟などと称した。浙江省海寧の人。国士監で学ぶ権利を得、その後王朝に仕えるようになり、晩年に山西省の長官となった。官僚としては低い地位に甘んじたものの、その書は米芾や明時代末期に活躍した董其昌に影響されたとみられる明快な書風が特徴的で、康熙帝の御前で揮毫を命ぜられるほどだった。
若いころからよく詩を詠み、清時代初期の詩人として有名な王士禎に師事していた。また陳奕禧は金石の収蔵家としても知られ、秦時代や漢時代からの作品も集めると、その文字の考察も行ったと言われている。

七言詩扇

七言詩扇

七言詩扇

七絶立軸

七言聯

七絶立軸

滕王閣序卷

七絶扇面

七絶図片

七絶図片

七絶図片

七絶立軸

七絶立軸

五律立軸

五律立軸

五律立軸 五律立軸 憶女及孫二首之一 七言絶句軸 北征楽府


25 査昇 順治7年(1650)-康熙46年(1707)
字は仲韋、声山と号した。浙江省海寧の人。詩の名家であった査慎行の一族で、査慎行の詩と朱自恒の画と、査昇の書を合わせて海寧の三絶と称された。
翰林院侍読学士を務めた官人で、詩文書画に優れ、書は董其昌の影響が強く、康熙帝からも賞讃された。

七絶軸 七絶軸 林逋詩北山写望詩 范成大四時田園雑興詩 五律軸


26 徐用錫
初名は吉、字は壇長、魯南、また号は画堂。江蘇省宿罐の人。康煕四十八年(1709)の進士、侍講となった。字学に精通し、書法の書風は雄勁で、飄逸である。

27 汪士鉱
字は文升い、若公と号し、後に退谷と改め、又秋泉と号し、別に松南居士と号した。江蘇省呉県の人。

28 万経
字は授衣、九沙と号した。康煕42年(1703)の進士で、編修に官し、貴州学政となり、乾隆の初め鴻博に薦められた。書は隷書を工にした。

29 林佶
字は吉人、号に紫微内史、鹿原、麓原子。侯官(福建省福州)の人。順治17年(1660)生れ。康熙51年進士となり、のち内閣中書となる。
楷法を工にし、又、篆隷を善くし、文は汪碗を師とし、詩は陳廷敬及び王士頑を師とした。

30 何焯 順治18年(1661)- 康熙61年(1722)
字は屺瞻(峐瞻とも)、号は茶仙など。長洲県(江蘇省蘇州市)出身。
学者からは義門先生と呼ばれた。経書、史書、諸子百家に精通し、門下生は数百人にのぼった。義門・姜西溟・汪退谷・王虚舟を並称して清朝の四大学者と称する。

31 趙執信 康煕元年(1662)-乾隆9年(1744)
字は伸符、号は秋谷、飴山。山東省益都県の人。康煕18年(1679)の進士。翰林院庶吉士を経て、84年山西郷試正考官、ついで右春坊右賛善に抜擢されたが、89年、康煕帝の母の忌日に友人と観劇会を催して弾劾され、官籍を剥奪された。その後は无想道人と号し、晩年は自ら韶山老人と署し、主として故郷で詩酒を友とし、五十余年の余生を送った。
詩は彫琢を凝らした繊細な詩風で知られる。

32 葉奕苞 崇禎2年(1629)-康熙25年(1686)
葉奕苞は字を九来という。江蘇省崑山の人。工詩にして書を善くした。

33 陳鵬年 康熙2年(1663)-雍正元年(1723)
字は北溟、澹洲と号した。湖南省湘潭の人。その書は顔魯公を師とし、尤も草書を妙にした。

34 王澍
字は若霖、号は虚舟、竹雲。江蘇省金壇の人。康熙51年(1712)の進士。翰林に入り戸科給事中、のち吏部員外郎となった。書は唐の欧陽詢らを学んで厳格な楷書を得意とし、また草書は晋人を宗とした帖学派の先駆を成したと言える。書論家、古典研究家としても名高く、虚舟題跋・竹雲題跋・淳化秘閣法帖攷正などの著述がある。

臨曹娥碑・黄庭経・洛神賦 冊 積書巖帖冊 積書巖帖冊 臨米芾蜀素帖 周易 謙卦彖伝


35 楊賓 順治7年(1650)-康熙59年(1720)
字は可師、号は大瓢、耕夫。山陰(浙江省紹興)の人。13歳のとき父母が寧古塔(黒竜江省寧安)に流謫されたため、辛苦して育つ。40歳のとき父母のもとに至り数ヵ月間孝養を尽くし、のち父の柩と母とを迎えた。世人は彼を楊孝子と呼び、その孝の厚きを称したという。文に長じ、漢書・杜詩に精しく、書は黄庭経・聖教序など碑帖を研究し、宋・元の習気に染まず、名が聞こえた。

36 蒋衡 康熙11年(1672)-乾隆8年(1743)
もとの名は振生、字は湘帆、拙存ともいう。号は江南拙叟。江蘇省金壇の人。書法に工だった。

37 沈徳潜 康熙12年11月17日(1673年12月24日)- 乾隆34年9月7日(1769年10月6日)
字は確士。号は帰愚。蘇州府長洲県(江蘇省長洲)の人。67歳で進士となり、乾隆帝に詩才を認められて、内閣学士に抜擢され、陳羣と共に東南の二老と称された。古詩源・唐宋八家文読本などの選者として知られる。諡は文愨。

38 高鳳翰 康熙22年(1683)-乾隆13年(1748)?
字は西園。号は南村、晩年には尚左生、南阜、老阜。山東省膠州の人。雍正5年(1727)孝廉方正にあげられ、官は安徽省歙県丞にのぼったが讒言により退官し、のち揚州を中心に活躍し、揚州八怪の一人に挙げられた。
草書、篆刻にもすぐれたが、乾隆6年(1741)右手を患って以後、左手で威勢のよい山水・花卉画を書いた。
詩集に南阜詩鈔があり、硯の収集家で著に硯史がある。

秋興八首

風と雪の中で 手札 隷書十言聯 老樵詩 題画詩


39 安岐 康熙22年(1683)〜?
安岐は天津の人。字を儀周といい、麓村と号し、また松泉老人とも号し、沽水草堂といった。塩あきない巨商大富豪で、江淮間の文士の貧にして不遇なるものは多くこれに寄食した。麓村は書画を愛好し、また甚だ精鑒で、収蔵に富、書譜の真蹟を得て之を摹刻した天津本など、天下に冠たるものがあり、清の皇室の収蔵にかかる著名なものは殆んど麓村旧蔵のものが多く、これを著録した墨縁彙観など、如何にその収蔵の豊富であったかを窺うことがでる

40 張庚 康熙24年(1685)-乾隆25年(1760)
原名はZ、のち改名して庚とし、浦山と号する。他に瓜田逸史、白苧村桑者、弥迦居士など。字は溥三、公子干。秀水(浙江省嘉興)の人。山水を能くした。著書に国朝画徴録など。

41金冬心 康熙26年(1687)-乾隆28年(1763)  金心蘭・江標(扇子-1)

一 金冬心の経歴および人物
金農は初名を司農といい、字を寿門、冬心と号し、別に稽留山民、曲江外史、龍梭仙客、蓮身居士、仙壇掃花人、寿道士、金牛湖上詩老の号があり、その他、香鉄、吉金、金二十六郎、百二硯田富翁、心出家龠粥飯僧とも号し、丁卯(康熙26年)生れを以って老丁ともいった。銭塘(浙江省杭州)の人で、揚州に流寓した。50歳から金冬心の号で知られる。
詩書画に才能を発揮し、官位には就かず、民間人として一生を過ごし、文人としての孤高の精神を貫いた。

二 金冬心の交友
30代より揚州に遊び、鄭燮、高翔、華ーらと交わり、晩年はこの地に住んで、没した。
揚州に集まった8人の個性的な画家、いわゆる揚州八怪の第一にあげられる。近所には終生の友で篆刻界を名を馳せた丁敬がいた。晩年の弟子に羅聘がいる。

三 金冬心の画風
金冬心は一方また鑒識にも長じ、よく古書画の真贋を弁別した。またこのんで詩歌・銘賛・雑文をつくり、語を出すこと流俗と趣を異にした。
画は余技で、50歳を過ぎてから描き出したという。晩年にかけて、個性の強い独特の洒脱味をもつ画を完成していった。山水、竹、梅、馬、仏像などを描いたが、とくに墨梅が名高い。

四 金冬心の書蹟
金農の書法の基礎は漢隷で、40代はじめまで、西嶽華山廟碑を盛んに学んだ。
隷書は、40歳前後には平直の分隷の作品に終止取り組んだ。50歳代になると、刷毛で書いた字に細いひげをつけたような金農独特の華麗な漆書体が出始め、60歳代で益々磨きがかかる。金農自身は、漆書体を呉の禅国山碑と天発神讖碑に基づいたといっている。70歳以降は、分かりやすくはっきりした表現になる。
楷書は50代が最も多く、正方のゴシック体で謹厳実直な重量感がある。60代ではゴシック体を縦長にとり、70代では隷書と楷書が調和した書体になった。

尺牘

尺牘

茶説軸

世説語軸

度量如海涵春育

餌菊詩

韓康孔群佚事

昔邪之廬詩

隷書冊

尺牘(方君宛)

隷書冊 隷書冊 隷書冊 臨西嶽華山神廟碑軸 臨西嶽華山廟碑(72歳作)


42 張照 康煕30年(1691)-乾隆10年(1745)
字は得天。号は南、天瓶居士。諡は文敏。婁県(上海市松江区)の人。康煕48年(1709)の進士。官は内閣学士、刑部尚書にいたり、また大清会典の纂修に従事した。法律、書画、音楽の各方面に優れた才能を発揮したが、とりわけ書法において雍正・乾隆2帝の寵愛をうけ、当時流行の董其昌から顔真卿、米芾を学んで渾厚な書風を展開した。清初の帖学の大家として重きをなす。得天居士集、天瓶斎書画題跋などの著がある。

滕賓鵲橋仙詞巻

杜甫詩 少陵述古(天瓶斎帖)

臨米芾九会郡楼詩帖軸

李商隠東還詩

臨董其昌詩帖

捲簾拂石七言聯 莫放最難七言聯 臨米芾詩帖巻 臨宋人八書巻 蘇詩軸


43 汪由敦 (康熙31年(1692)-乾隆23年(1758年3月1日)
字は師茗、謹堂また松泉と号した。安徽休寧(安徽省黄山市)の人。雍正2年(1724)の進士で、乾隆の間、累官して吏部尚書に至った。卒して贈太子太師を加えられ、文端と諡された。敦は学問淵深、文辞雅正。兼ねて書法を工にした。著に松泉文集、松泉詩集がある。

44 鄭燮 康熙32年(1693)-乾隆30年12月12日(1766年1月22日)
字は克柔、板橋と号した。揚州府興化県(江蘇省)の人。詩書画すべてよくし、三絶の誉れ高い孤立独往の文人で、書がもっとも異彩を放っており、その書風は楷書の中に篆隷の要素を混じえた一種の雑体書。隷書が2/3で、楷書がその残りという隷意の強い特徴をもつことから、自ら六分半書と言ってる。八分隷と比べると1分半不足するといった意味。左右の長いはね出しや長い画の途中で筆を頓挫させるなどは黄庭堅の書風の影響である。行書・草書は、黄庭堅を根底としたと本人がいっている。
画は徐渭に私淑、蘭竹画を得意とした。揚州八怪の領袖的存で、金農、殊L、汪士慎らと親交を結んだ。

懐素自叙帖

臨岣嶁碑

論書

古詩十九首之15

詠墨詩

行書真蹟(擁書楼蔵) 行書真蹟(擁書楼蔵) 行書詩 行書詩 行書詩