于右任 う・ゆうじん

暮従碧山下。山月随入歸。郤顧所來徑。蒼蒼横翠
微。相攜及田家。童稚開荊扉。緑竹入幽徑。青蘿拂行衣。
歡言得所憩。美酒聊共揮。長歌吟松風。曲盡河星稀。我醉君復樂。陶然共忘機。 李白詩
   李白詩 下終南山過斛斯山人宿一置酒
 暮に碧山從り下る。山月人に随って帰る。卻(かえ)って来し所の径を顧みれば、蒼々として翠微横はる。相携えて田家に及べば、童稚荊扉を開く。緑竹山径に入り、青蘿行衣を払う。歓言(よろこ)んで憩う所を得たり。美酒聊か共に揮う。長歌松風に吟ずれば、曲尽きて河星稀なり。我酔い君復た楽しみ、陶然として共に機を忘る。
32.5p×131.5p

   
光緒5年(1879)生〜民国53年(1964)歿
製作年  不明
 中華民国の官僚・書家。字は伯循。陝西省三原県の人。光緒29年(1903)、上海の震旦公学で学んだ。32年、日本に留学し、同盟会に入った。のち帰国して『民立報』を経営・執筆し、革命思想を鼓吹した。民国元年(1912)、南京臨時政府の交通部次長代理となった。第二革命がおこり、『民立報』が発禁となってからは、上海で書画を収集し、また自らもそれを楽しんだ。西安碑林博物館の墓誌廊に展示されている墓誌は、かれが寄贈したものである。1918年以後は、靖国軍をおこしたり、それに失敗しては広東で国共合作をすすめた。また上海大学の創立にも力をつくした。1924年、孫文に従って北上し、その死後、国民党中央執行委員となり、右派の領袖として権力をもった。1926年には、ソ連から馮玉をむかえ、国民連合軍をつくり北伐軍に参加したり、武漢南京政府の要職を歴任した。開放後は台湾にわたり、国民政府の監察委員長として、また元老として重きをなした。詩をよくし、『右任詩集』がある。
 その書はみずから「石門銘」や「龍門二十品」を学んだといっており、各体ともによくしたが、とりわけ草書をよくし、右軍を習い、深く碑学を研磨し、遂に「標準草書」を創り草聖と仰がれた。
 帖学派の書に帰趨するようでもあるが、書法にとらわれない超俗的な書風には、風韻がある。第二次大戦前後、南京・上海方面で名があり、現在でも台湾では、もっとも重んぜられている。
 弟子に劉延濤・胡公石・李普同・李超哉・胡恒・楊士瀛・張光亜等がいる。


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