王震 おう・しん

同治5年(1866)生〜民国27年(1938)歿
製作年  1919年(54歳)
40p×134.5p
 本名を震といい、字の一亭で知られる。若い頃の作には本名の王震または一亭と著し、40歳過ぎから白龍山人と構ずる。浙江省呉興の出身で、代々、家が呉興北郊の白龍山の麓にあったことに因るという。また、堂号を梓園、梅華館、海雲棲という。また、法名を覺器という。
 かれは15歳のときに上海に出て、銀行のボーイから身を起し、刻苦力行、やがて船舶運輪、保険、電気事業など多くの要職を兼ねる上海実業界の大立物になつた人で、民国初年には農商務大臣にも任じた。教育にも熱心で、上海昌明芸術専科学校校長を勤めた。
 かれはたびたび来日したので、日本にも知友が多く、大の親日家であり、深く佛教に帰依し、仏学書局董事長に任ぜられた。慈善事業などにも積極的に応援した。かの関東大震災に際しては、わが国に救援物資をおくり、また、不幸な災死者の慰霊のため梵鐘を鋳造した。この梵鐘は今日も両国の東京震災記念堂にある。
 王一亭は初め上海の画壇に重きをなした任頤(伯年)に画を学んだ。そののち呉昌碩に師事して、山水・人物、特に花卉に力を注ぎ、画技も年ととも大いに進み、天衣無縫、雄健渾厚である。その画は呉昌碩に酷似しており、世間に呉昌碩の画とされるものの中に、一亭の画に昌碩が落款したものが混っていることは事実である。
 かれの画は実業家の余技という域をはるかに超えたもので、呉昌碩亡きあと、齊白石と並んで彼の作を愛好する人士が頗る多い。


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