章炳麟 しょう・へいりん

鵝費羲之墨
鵝を費やす 羲之の墨
貂餘孝子裘
貂を余ます 孝子の裘
38p×145.5p聨

   
同治8年(1869)生〜民国25年(1936)歿
製作年  1930年(62歳)
 清末民国初の革命家・学者。浙江省余杭の人。字は枚叔、号は太炎。孫文・黄興とともに辛亥革命の三尊の一人とされる。幼児期より外祖父朱有虔より漢学を学ぶ。1890年杭州の詁経精舎に入学し、清朝考証学の集大成者兪樾に師事し『春秋左氏伝』を学び、音韻学・仏教学・史学にも精通した。
 1895年強学会に入会し、1897年上海「時務報」の記者となり康有為などの変法派に接近した。1898年戊戌変法の失敗により台湾に渡り、1899年日本に亡命し梁啓超の紹介で孫文と会見し、上海に戻った。しかし、今文派・公羊学者とは根本的に相容れず、伝統的な郷紳知識層の民族主義の見地から、夷狄(満州族)を駆逐し中華を再興するという、いわゆる滅満輿漢の種族革命思想を提唱した。1900年に論文集『訄書』を出版し、1901年蘇州東呉大学の教員となり、1902年日本に亡命し、蔡元培らと中国教育会を結成した。数度にわたる日本亡命では、孫文と提携するとともに、ようやく増加はじめた中国人留日学生に古典学を講義しながら、民族主義をも鼓吹するなどして、多大の影響力を与えた。
 1903年帰国愛国学社で教鞭をとったが、「蘇報」事件により鄒容らと共に逮捕された。1904年に光復会が結成され、蔡元培が会長となった。1906年出獄後、中国同盟会の結成にも積極的に参加し、機関誌「民報」の編集長として健筆をふるった。1907年には張継・劉師培らと社会主義講習会を開催し、1910年光復会会長となった。
 しかしながら、光復という伝統的な種族革命論にあくまで固執する章炳麟は、西欧的な民権の確立を第一とする孫文とは、根本的に相容れない思想の持ち主でもあった。ために、孫文ともしだいに疎遠となった。
 辛亥革命後、1912年中華民国連合会会長、南京臨時政府の枢密顧問・大総統府高等顧問などに就任した。しかるに第二革命後は、志を得ないまま政界から引退し、上海にあって学問に没頭し、『文始』『新方言』などで「小学」の概念を樹立した。
 かれは設文学に精しく、書はなかなかの才筆である。篆書はその最も得意とするところであった。行草には風趣豊かな味わいがあるが、篆書は字画をあまりにも気にしたためか、いささか精彩に欠ける観がある。壮年期の華々しさに反し、晩年は寂寥たるものであったというが、あるいはそうしたことも影響しているのかもしれない。


参考文献一覧      HOME