梁田 蛻巌 やなだ ぜいがん
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紙の船 一指 皋(さわ)に堪え 盪(うごき)来たる 几案(=机)の間 坳堂(=庭先の凹み)雖(だけれど)も 水に泛(うか)ばんとし 風の処は 山に登らんと欲す 蠧魚(=しみむし) 舳(=船首)に依って跳び 蚊鳥 檣(=マスト)を掠って還る 幻師 竹葉を捐(す)て 先ず試みる 小谿の湾 |
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36×30cm |
寛文12年1月24日(新暦 1672年2月22日)生〜宝暦7年7月17日(新暦 1757年8月31日)歿 |
江戸中期の儒者・漢詩人。江戸の人。名は邦美、字は景鸞。通称は才右衛門。梁田毅斎の弟で、梁田象水の父。 人見竹洞に学び、18歳の頃より朱子学者山崎闇斎を師と仰いで著書を精読し、朱子学、仏教、神道、禅学を修めた。また剣術にも熱心であった。新井白石、室鳩巣、桂山彩巌らと交わり才識を磨いた。武事や兵法を語ることを好み、英雄の武勇伝を語りだすとその人物に成りきり、刀に手をかける程熱中したという。 はじめ岐阜の美濃加納藩の藩儒として岐阜にあったが、磊落で慷慨の気象に富んだため、「覇儒」と称された。この性格のため仕官に向かず、諸藩をわたり歩いた。 享保4年(1719) 48歳の時、明石藩主松平直常公に招かれ藩需となった。晩年は人柄も穏やかで別人のようであったという。 蛻巌は変転を重ねながら独自の詩風を築き、詩豪と称された。この頃、盛唐の詩を範とした古文辞派の詩風に対し、自己の真情を自由に吐露する宋詩風が起こった。盛唐詩や明の袁中郎らを広く学んだ蛻巌は、上方芸苑の中心的存在となった。著作に子の象水編『蛻巌集』・『蛻巌先生答問書』などがある。 引首印は「一劍霜寒」、「蛻巌」の下に、朱文の「景鸞」の落款印が押されている。 推奨サイト http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/zeigan/zeigan.html http://www11.plala.or.jp/touzan/zinbutu/zeigan.htm http://blogs.yahoo.co.jp/bukou2007/30352998.html http://kotobank.jp/word/%E6%A2%81%E7%94%B0%E8%9B%BB%E5%B7%8C http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/09/4/0915920.html http://www.bungaku.pref.hyogo.jp/cgi-bin/jousetsu/sakka.cgi?id=1035 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A2%81%E7%94%B0%E8%9B%BB%E5%B7%8C/ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%BE%B3%E9%A4%A8 http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1370.html http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-380.html |