山本 竟山 やまもと きょうざん
   

開窓晴對山
窓を開いて晴 山に対す。
106p×21.3p

文久3年9月28日(新暦 1863年11月9日)生〜昭和9年(1934)1月24日歿
 名は由定・繇定、幼名を卯三朗、通称は卯兵衛、号は竟山また聾鳳といった。美濃国(岐阜県)岐阜の紙商山本卯兵衛の長男。
 幼くして神谷簡齋について書法を学んだ。のち日下部鳴鶴に師事したが、鳴鶴の師楊守敬のあることを聞き、明治35年(40歳)のとき、ついに渡航し、楊守敬に書法を尋ねた。以後中国に遊学すること7回に及び、呉昌碩・顧麟士らと交わって初学を研鑽し、おびただしい法帖碑版を日本へ持ち帰った。
 はじめ台湾総督府に奉職したが、明治の末年に京都に移り、多くの子弟を指導し、関西書壇にその名をうたわれた。かれは金石法帖などに関する造詣深く、その収蔵も多い。
 竟山は学書の基本をいつも古典の臨書においていたが、無意味な模倣や追従を極度に嫌ったといわれており、あくまで個性を尊び、創造性・自主性のある書を書くことを心がけたという。王羲之系統の書のなかでも〈蘭亭序〉を好んでたびたび臨書している。晩年には?遂良にも傾倒していた。泰東書道院・日本美術協会・東方書道会・関西書道会などの顧問・審査員をつとめた。著書に『昭和元年勅語』『臨蘭亭二種』『竟山学古』などがある。
 また竟山は我が国の神道を解明した学派である闇齋学の学者でもあり、神道に対して一種独特の哲理を持っていた。
 引首印は朱文の「安樂」、「竟山繇定」の下に白文回文の「山繇定印」、朱文の「竟山」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%AB%9F%E5%B1%B1
http://www1.ocn.ne.jp/~go79dou/rune11-1.html
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1571.html
http://www.shodo-journal.com/treasureboxjapan/ya/yamamoto.html
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=ya&s=220


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