上原 欣堂 かみはら きんどう
   

危巓○戴千秋雪
今古太刀靈氣鍾
朝暮遙看聳天空
夏雲更復起奇峯
危巓(いただき) ○戴 千秋の雪
今古の太刀 霊気鍾(あつ)める
朝暮 遙かに看る 天空に聳えるを
夏雲 更らに復た 奇峯起きる
135p×34p

明治36年(1903)生〜昭和56年(1981)4月10日歿
 富山県上新川郡大久保村村上大久保(現 大沢野町)に上原恒次郎・りよの長男として生まれる。本名は定清。富山師範学校に入学。近藤雪竹に学ぶ。卒業後、文部省教員検定試験(文検)に合格し、昭和3年(1928)、母校の教師として勤めた。昭和8年(1933)、田代秋鶴(東京高等師範学校)・尾上柴舟(東京女子高等師範学校)・辻本史邑(奈良女子高等師範学校)らを富山に招き、書道講習会を開くと共に「富山書道会」を結成、書道雑誌『雅遊』を創刊、また他に書道教育論文集『富山書道』(季刊)を刊行した。
 昭和10年(1935)頃、泰東書道院に加わり、理事に就任。国文学者・歌人としても指導的な地位にあった尾上柴舟に師事して仮名の指導を受けた。昭和11年(1936)5月、外務省対支文化事業部の助成により中華民国を訪問した。
 新制大学の発足で、師範学校は富山大学教育学部となり、大学書道学会・国立教育大学協会第二部会書道部に属して研究発表に意欲を燃やし、約50編の論文を世に送り出した。昭和52年(1977)『上原欣堂著作集』としてまとめられ出版されている。
 昭和40年(1965)1月、日本教育書道連盟視察団の顧問として台湾に渡り、蒋介石に会い、また同年8月には全日本書写書道教育研究会の碑林調査団の団長として西安に赴きね郭沫若ら要人と会談した。昭和42年(1967)には日本書道の紹介と普及を目指す使節団の副団長として欧米16都市を訪問した。昭和43年(1968)富山大学教育学部教授となり、昭和47年(1972)日本書道教育学会参与となる。
 が、昭和41年に自宅を全焼する厄に遭い、研究資料の大半を失った。
           (参考文献:『越中人譚【書壇】』上原欣堂)
 「欣堂書」の下に、白文の「上原定清」、朱文の「欣堂」の落款印が押されている。


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