大橋 訥庵 おおはし とつあん
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歌舞霓裳 曲未まだ終らず 胡兵幾万 深宮に入る 君王只だ道う 赤心(=まごころ)満つるを 誰ぞ識る 戈矛腹中に在るを |
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107.6p×46p |
文化13年(1816)生〜文久2年7月12日(新暦 1862年8月7日)歿 |
幕末の攘夷思想家、儒者。長沼流兵学者清水赤城の4男。江戸の生まれ。名は正順、字は周道、順蔵と称し、曲州・承天・訥庵と号した。 14歳のとき信濃飯山の酒井義重の嗣子となったが、のち藩士として江戸留学を命じられ、天保6年(1835)江戸に出、天保8年(1837)佐藤一斎の門に入った。 天保12年(1841)江戸の豪商(真岡もめん問屋)佐野屋の大橋淡雅の女婿となり、その援助で宇都宮藩に仕えるとともに、日本橋に思誠塾を開き子弟の育成に努めた。 のちに陽明学を排して朱子学を奉じ、過激な攘夷論を主張し、ペリー来航時には幕府に上書して攘夷の実行を迫った。また安政の大獄の際には、刑死した頼三樹三郎の死体が晒されているのを悲しみ、密かに葬っている。 桜田門外の変後は和宮降嫁、公武合体に反対し、王政復古策を密奏するとともに日光輪王寺宮擁立運動に加わる。これが未発に終わると文久2年(1862) 大橋淡雅の実子菊池教中らと老中安藤信正襲撃(坂下門外の変)を画策して同1月12日、捕らえられた。挙兵を計画すれば実行に加わる有志が次々に現れるであろうとの楽観論を持ち、その状況認識には甘さがみられる。 獄中で病気になり、7月7日、許されて出獄し宇都宮藩に預けられたが、同12日に死去した。 落款はなく、白文の「大橋順字承天」、朱文の「梅邨隠者」の落款印が押されている。 推奨サイト http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E8%A8%A5%E5%BA%B5 http://yosihisa.jugem.jp/?day=20080320 |