林 檉宇 はやし ていう
   

折腰黄綬自知非
一夢田園賦式微
千古清風上下在
東籬菊與西山薇
淵明帰去来圖
折腰(=人に頭を下げ)の黄綬(=丞・尉などの官) 自ら非(=自分にむかない)を知る
一夢の田園 式微(=衰退)を賦す
千古(=永遠)の清風 上下(=いろいろの事)在り
東籬の菊と 西山の薇

 陶淵明は田園詩人とか隠逸詩人といわれたように、自然の風光を好み地位名誉からも離れて酒と菊花を愛したという。
 若い頃は意気盛んで、29歳で江洲祭酒(学校行政をつかさどる長官)になるが、官吏に馴れ染まず出仕と帰郷を繰り返し、41歳で辞職してからは、故郷の田舎の村に帰り、隠棲し晴耕雨読、悠々自適の生活を始めた。若い頃から世俗に合わせるという性格ではなく、有名な『帰去来の辞』は、最後の辞職のときに作られた。

帰去来兮辞の本文は四段からなる。
 一段目は、官を辞して家に帰る決意を述べ、はやる心で帰路に赴く様を描く。
 二段目は、家に帰った喜びと、家でのくつろぎの一時を述べる。家人に迎えられ、好きな酒をのんびりと飲める喜びが語られている。
 三段目は、もう一度「歸去來兮」と決意を述べた後で、田園で暮らす喜びを描く。二段目が秋であったのに対し、これは春を歌う。おそらくは、帰郷の翌年に作ったのであろう。
 四段目は、自然の恵みに対比して人の命のはかないことを、一種の無常観を以て述べる。陶淵明の人生観がよく現れている部分である。

東籬菊

 陶淵明の「飲酒二十首」其五に「結廬在人境 而無車馬喧 問君何能爾 心遠地自偏 采菊東籬下 悠然見南山 山気日夕佳 飛鳥相与還 此中有真意 欲弁已忘言(盧を結びて人境にあり 而も車馬の喧しきなし 君に問う何ぞ能く爾るやと 心遠ければ地も自ずから偏なり 菊を采る東籬の下 悠然として南山を見る 山気に日夕に佳く 飛鳥相い与に還る 此の中に真意あり 辨全と欲して已に言を忘る」とある。
 陶淵明は田園詩人とか隠逸詩人といわれたように、自然の風光を好み地位名誉からも離れて酒と菊花を愛したという。
 しかし自伝の「五柳先生伝」によれば、菊をとって楽しむというのは、淵明にとっては悠々として余生を楽しむというような呑気なものではなかった。むしろその日の食事にもことかくような恐ろしい貧乏な日々もあり、着物はつぎはぎのみじめなものであり、家は風雨を十分にふせぐには足りないという状態であった。また「飲酒」の詩の序でも、長い夜は楽しみもなく、独りでいることが淋しくもあった、それをまぎらわすために酒(酒といっても自分で作った濁酒)をのみ、詩を作ったといっている。
 彼はいかに貧しく、また淋しくとも、ともあれ自己のまわりにある手近の菊や鳥や山や、あるいは家庭や、ひいては百姓としての生活を大切に守り通してみよう、自分にとって正しいと思える生活、このような手近なものに対する愛に生きるよりほかにないと考えていたようだ。

西山薇

 陶淵明の「飮酒二十首」其二に、「積善云有報 夷叔在西山 善惡苟不應 何事空立言 九十行帶索 飢寒況當年 不ョ固窮節 百世當誰傳(善を積めば報有りと云うも、夷叔(伯夷・叔斉)は西山に在り。善悪苟くも応ぜずんば、何事ぞ空しき言を立つ」(『易』は善を積めば報いがあるというが、伯夷叔斉は西山で苦しんだ。善と悪とが相応に報われないとしたら、なんだって意味のない言葉をつらねたのか)とある。
 伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。当時は末子相続というパターンがあったという。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国王不在で困った国人は次男を王に立てた。
 流浪の身となった二人は周の文王の良い評判を聞き、周へむかった。しかし、二人が周に到着したときにはすでに文王は亡くなっており、息子の武王が、呂尚を軍師に立て、悪逆で知られた殷の紂王を滅ぼそうと軍を起こし、殷に向かう途中だった。二人は道に飛び出し、馬を叩いて武王の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言えましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか!」と諌めた。周囲の兵は怒り2人を殺そうとしたが、呂尚は「手出しをするな!正しい人たちだ」と叫び、2人を去らしめた。
 戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、二人は周の粟を食む事を恥として周の国から離れ、西山(首陽山)に隠棲して薇(ぜんまい)を食べていたが、最後には餓死した。死に臨んで、「西山に登り 采薇をとる 暴を以て暴に易え その非を知らぬ 神農・虞・夏忽焉として没す 我いずくにか適帰せん 于嗟徂かん 命の衰えたるかな」の歌を残した。
 その行いは孔子以来、儒家によって「仁」と高く評価されているが、一方、司馬遷は2人は本来なら歴史に残るような人物ではなかったと述べている。孔子が、2人の人物の精神を取り上げ、残してくれたおかげで、我々も知ることができる。司馬遷はこの話から天道の是非、個人が歴史に名を残すことの偶然性などを思い、この伯夷列伝を『史記』列伝の最初に置いた。
54.4p×131.8p

寛政5年5月27日(1793年7月5日)生〜弘化3年12月6日(1847年1月22日)歿
 江戸後期の儒者。林家九世。江戸幕府に仕えた儒官の家として代々大学頭を称した林家の当主林述斎の三子。鳥居耀蔵の兄。名は皝、字は用韜、別号に培斎。佐藤一斎,松崎慊堂に学ぶ。幕府儒官となり,天保9年(1838) には父祖同様、幕府儒官として大学頭を称して侍講に進んだ。著作に『澡泉録』などがあり、能書家としても知られる。
 「檉窠(=宇)」の下に、「林皝」「用韜氏」の落款印が押されている。

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