龍 草盧 たつ そうろ
   

閑亭隱士貧雨
又賤不羨富貴
以之爲樂四壁
隨諫以風難侵
一瓢底空三昧
自濃我不知人
無恨無喜人不
知我無譽無毀
曲肘爲枕如何
更愛浮雲榮耀
閑亭 隠士 貧雨
又賤しく 富貴を羨やまず
之を以て為に四壁を楽しむ
諫に随い 以って風(=風姿・風格) 侵かし難し
一瓢の底 三昧空し
自ら我に濃やかに 人知らず
恨無く 喜無く 人不らず
我を知り 誉無く 毀(そしり)無し
肘を曲げて枕と為す如何せん
更に浮雲を愛す (是れ)栄耀(=栄耀栄華)
115p×28p

正徳4年(1714)生〜寛政4年 2月2日(新暦1792年3月24日)歿
制作年  天明7年(1787) 74歳
 名は公美、字は君玉。中途で名を元亮、字を子明と改めたが、のち再び旧に復した。通称は彦二郎、のち衛門といった。諸葛孔明に私淑して草盧と号したが、別に竹隠、松菊、呉竹翁、明々窓、緑蘿洞、鳳鳴などとも号した。山城伏見に生れ、伏見の桂大納言経信の後裔というが、幼にして父をうしない、京都の筆商にひきとられて勉学した。
 はじめ荻生徂徠、太宰春臺の学を好んだが、のち京都に出で儒者宇野明霞の門に入った。ところが草廬は詩人としての才能に恵まれ、経学をおろそかにしたため、明霞の怒りをかった。明霞のもとを去った草盧は、「学は常師なし」と称して元文年間に京の烏丸小路に居し、生徒を集めて教授し、経営はすこぶるさかんであった。
 かれは和歌、和文にも興味をもち、契沖の説に傾倒したが、その本領はやはり漢詩にあり、宝暦の頃、京都に「幽蘭社」を結び、大阪の片山北海の「混沌杜」と並び称せられた。
 寛延3年(1750)より彦根候に遊事して、月俸をうけ、なお京都に住んでいたが、賓暦7年(1757)、彦根に赴任し、城中に邸宅を賜わり、その講莚に侍するものは600人をかぞえたという。安永4年(1775)官を辞して京都に閑居した。『唐詩材』『日本詩冊』『論語詮』『毛詩證』『金蘭詩集』『草廬詩集』『草廬文集』『草廬瀬尺牘集』など多数の著書がある。
 草盧の書は、李北海、趙松雪を学んだといわれるが、繊細で筆勢が弱いとの評がある。門人を厳格に訓戒しないとか、日常生活において、金銭上儒者としてふさわしくない行爲があるなどと非難せられている。廣瀬淡窓の儒林評に「龍草廬ハ(先哲)叢談続編ニ出デタリ、除リ評判宜シカラヌ趣ナリ」といっているのは、こうした点をいっているのであろう。『士太夫節倹論』などの静がある。
 「七十四翁 公美」の下に「龍」の印が押されている。

推奨サイト
http://www.ritsumei.ac.jp/~mit03437/coe/heian/tenmei2/tenmei2_syoka.htm
http://72.14.235.104/search?q=cache:fxOeeNj5aNkJ:www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/prede_16.htm+%E9%BE%8D+%E8%8D%89%E7%9B%A7&hl=ja&ct=clnk&cd=16&gl=jp&lr=lang_ja
     箱の裏書に「甲北の老友 八卷九萬翁所贈 昭和三年戊辰三月如雲識」とある。
 八卷九萬は詳細は解らないか昭和4年に亡くなっている。
 箱書きの筆者「如雲」については不明。


参考文献一覧      HOME