多田 親愛 ただ ちかよし
   

      
      明治廿六年といふとしの む月(正月)こえぬかに
      高梨ぬしのもとより
   月も日も つもれるままに としたちて           
   はるならなくに きゆるゆきかな              
      とよみて おくりたまへるを見れば         
      うたのすがたは やさしく たをやめ(手弱女)の  
      花をあざむく風情あり またその
      こころは いさましく ますらを(益荒男)の いし
      をもとほす いきほひ(勢い)ありて おもい(想い)
      言葉にあらはれたり とりあへず
      かへしによめる
   ますらをの こころの底につもる雪
   きゆともあとは 人やしるらん
      
43p×57p


天保11年1月15日(新暦 1840年2月17日)生〜明治38年(1905)4月18日歿
制作年 明治26年(1893)   54
 江戸芝の生まれ。姓は源、号は雲亭、のちに翠雲。明治維新まで芝の~明~宮の禰宜であつたが、明治2年30歳の時、召されて~祇官に職を奉じた。同3年、大学出仕になり4年文部少録になった。
 同7年博物館(東京国立博物館の前身)属となり、以後27年まで20年間勤めた。その間、かれは町田館長に目をかけられ、勉学の便宣を得、博物館蔵<十卷本歌合>の<寛平御時后宮歌合>によって、十分に上代様の研究をした。かくて、かれの書風は、尊円流から高野切第二種の流を汲む書風に転じ、艶麗なうちに張りのある力強いものとなった。
 明治20年(1887)、かれは皇后宮の求めに応じて詩歌色紙二十四枚を勤写し、またこれと前後して、植松有經とともに、田中有美(親美の父)の描いた百人一首の絵に、歌を書いて奉った。27年55歳の時博物館を退職し、その後は書を書くことに専念した。37年(1904)9月には、堀江物語二卷を浄書し奉った。かれは和歌を香川景樹の弟子の八田知紀に学んだ。知紀が亡くなると黒川真頼に学んだ。
 明治期における仮名書道史は、かれによってまず革新の火蓋が切られたが、大正・昭和期に入って、その主流をなした上代様への憧れが、はやくもここに見られることば、注目しなければならない。
 かれはまた、鑑識にもたけ、門弟に田中親美を生んだ。岡麓は、かれの今一人の弟子である。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E8%A6%AA%E6%84%9B
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1543.html
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=ta&s=180 http://9199.jp/wiki/%91%BD%93c%90e%88%A4/


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