頼 支峰 らい しほう
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樹蒼く石古く 水濺々(=小さなしぶきを散らして流れる) 渇いた苔の洞中 纔(わずかに)露天す 酔を買い 憑を重ねる 茆店(=茅葺きの店)の暮 なお年を見ず 老詞仙(=詩仙) |
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29.5p×147.5p |
文政6年11月6日(新暦 1823年12月7日)生〜明治22年(1889)7月8日歿 |
頼山陽の第二子で、母梨影の初生子として京都に生まれた。名は復、字は士剛、又二郎と称し、支峯と号した。 山陽死没のときは10歳。その後、一時広島に預けられ、長兄聿庵に育てられたこともあったが、牧百峰や後藤松陰に学び、江戸へ遊学し、門田朴斎・関藤藤陰の庇護を受け、昌平黌に学んだ。 嘉永6年(1853)越後水原の学問所に招かれる。安政2年(1855)帰洛後、父の後を継いで家塾を開いて安定した生活を送り、弟頼三樹三郎(鴨崖)のような激しい行動には走らなかった。 しかし、門田朴斎・江木鰐水あて書簡に見られるように、父山陽の尊皇精神は消え去ってはいなかったようである。 明治維新の際、車駕東幸にあたってこれに扈従(天皇に随行)、上京して大学二等教授に任ぜられ、明治2年(1869)には大学少博士・従五位下となったが、間もなく辞職して京都に帰り、悠々自適の老後を送った。 晩年、父の書『日本外史』の標注本をつり、著作に『神皇紀略』などがある。 「支峰間人」の下に、白文の「頼復之印」、同じく白文の「頼氏士剛」の落款印が押されている。 推奨サイト http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/rai-atsushi/rai-atsushi.htm http://kotobank.jp/word/%E9%A0%BC%E6%94%AF%E5%B3%B0 http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1267.html http://www.tokiwart.jp/s-kakejiku/shihou/shihou.html |