重野 成齋 しげの せいさい
   

対人無不可言之事
  対人無くして 言うべからざるの事
190p×42p

文政10年10月6日(新暦 1827年11月24日)生〜明治43(1910)年12月6日歿
 名は安繹、字は士徳、通称は厚之丞、成斎と号す。鹿児島の生まれ。薩摩藩儒、東京帝国大学教授、文学博士等。父の太兵衛は家業の藍玉製造業を藩に献じて士籍に列せられた。
 嘉永元年、昌平黌に入り、羽倉簡堂・塩谷宕陰・安井息軒らの知遇を得て朱子学を善くした。羽倉簡堂のところで佐久間象山に合い、それまでの尊王攘夷を捨てて開国論者になった。しかし、藩の門閥家らに陥れられ、切腹させられるところを、藩主島津斉彬が才を惜しみ、鬼界ヶ島に流罪となった。流罪中、島の蔵書家・鼎氏の 膨大な蔵書をすべて読み込んで学問を磨いたという。また、あとで流されてきた西郷隆盛とも交流した。
 その後「生麦事件」でイギリス軍艦が鹿児島港を包囲したとき、藩命で英国行使パークスと談判し、藩と国を窮地から救った。
 明治4年(1871)上京し文部省に入り、太政官に転じて修史事業に従い、明治8年修史局副長となり、館長などを歴任した。明治14年(1881)、東京帝国大学文学部教授となる。
 明治15年(1882)、修史局において、漢文体の編年史『大日本編年史』の編纂が開始されると、成齋はその中心者となり、鋭意編纂に取り組んだ。修史事業が東京帝国大学に移管されると、元老院議官として文学部教授を兼ねてこれを総理し、後進をよく指導した。成齋は徹底した史料蒐集による実証的史学を創始し、近代史学の基礎を築いた。しかし、実証主義が行き過ぎていわゆる「抹殺史観」となり、囂囂たる非難が巻き起こり、ために「抹殺博士」なる渾名を奉られている。
『大日本編年史』は、明治23年(1890)に出版された略史『稿本国史眼』に伺われるように、実証史学による漢文の編年体通史となるはずだった。ところが、明治24年(1891)に、編纂委員の一人である久米邦武が『神道は祭天の古俗』という論文を発表したところ、各方面から非難が巻き起こって筆禍事件に発展し、久米は学会を隠退せざるを得なくなった。この事件とともに『大日本編年史』の編纂も中止されてしまった。
 一方で、三菱創始者である岩崎男爵家が創設した「静嘉堂文庫」の漢籍蒐集に当たった。同文庫の創設の当初の目的は、先生の修史事業を助けることにあっ。同文庫は、清国の蔵書家・陸心源の旧蔵書を一括購入するなどして、現在でも世界有数の漢籍コレクションを誇っている。
 成齋は漢学に造詣が深く、とくに作文にすぐれていた。明治の漢文界を代表する文章家であり、序文や碑文などが多い。成齋は若いころは斎藤竹堂を慕い、欧陽脩・蘇東坡の文を学んだが、晩年には清朝の桐城派の文を喜び、ことに姚姫伝の文を好んだ。麗沢社・廻瀾社などの文社に関係し、後進を熱心に指導した。 文章では川田甕江と名声を二分したが、二人の仲は悪かったと伝えられている。
 退職後は貴族院議員、錦?間祗侯に列した。
 明治40年(1907)にオーストリアのウィーンで万国学士会院聯合総会が開催されたとき、成齋は81歳の最高齢で参加した。その後、シベリア鉄道を経て満州へ入り、弟子の西村天囚の案内で中国各地に遊び、張之洞ら中国の学者らと唱和している。
 著書に『編年日本外史』(16巻。岡鹿門らと共著。頼山陽の『日本外史』を編年体に直したもの。)・『稿本国史眼』(7巻。久米邦武、星野豊城と共著。神代から明治にいたる漢文訓読体の編年体通史。)・『大日本維新史』(2巻。中国人に読ませる目的で叙述されたもの。)・『帝国史談』(2巻。大槻磐渓の『近古史談』に倣って作ったもの。)・『成斎文集』・『成斎遺稿』(8巻)などがある。
 引首印は「成斎」、「成斎書」の下に、白文の「重野安繹」、朱文の「?徳甫」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-179.html
http://homepage2.nifty.com/kanbun/writers/shigeno-seisai.htm


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