鈴木 重遠 すずき しげとお
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吾友の画家春岳翁 登仙(=仙人になって天に昇る)せり 翁 と余は同甲(=同じ年齢)也 特に哀慼に堪えん 因って 一絶を伏賦して 以って霛(=霊)前に呈す 君是れ丹青(=絵画)の老画仙 忽焉(にわかに)厭世(=生きているのがいやになり) 天に遊びに去る 天辺(=大空の果て)他日 相見が如し 復た風騒(=風流)を話して 肩を拍って笑わん |
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春岳= 同甲としていることから、文政11年(1828)生の松平慶永(春嶽)かとも思われるが、明治23年に亡くなっており、しかも政治家で画家ではない。 画家の鷹見春岳かとも思うが、文政5年生〜明治26年歿で同年ではない。 明治32年は重遠自信、政界を引退しており、どういう付き合いかが解らず、春岳とは誰かを特定できない。 |
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23p×18p |
文政11年(1828)生〜明治39年(1906)歿 制作年 明治32年(1899) 72歳 |
政治家。旧松山藩士。剛直な性格で、初め藩の執政となり、維新のときは王政維新権大参事兼公議人、大参事等を歴任し、後、官を辞した。 明治初年、民権論を唱えて各地を遊説し、国論の喚起に努め、自由党が出来るとこれに参加した。明治23年第一回の帝国議会に際しては、愛媛県から選ばれて衆議院議員となった。以後4期選出され、院内に於いて重きをなし、遂に全院委員長に推挙された。 これより先、意見の対立により自由党を去り、楠本正隆・大東義徴らとともに同盟倶楽部を組織し、のち自由党の一部と立憲革新党を作り、大いに活躍した。 明治31年、自由党と合同して憲政党となったが、侃々諤々の議をもって重んぜられた。まもなくして憲政党の分裂した際は、なお進歩派の憲政本党に留まったが、政界の腐敗を憤慨し、政界に望みを絶ち、憲政党を脱し、議員も辞した。 しかし、国家の問題、特に東亜問題に意を注ぎ、明治35年国民同盟会が起こるとこれに投じた。更に日露の風雲急を告げるに及び神鞭知常らと共に対露同志会を組織し、同志を激励終始与論の喚起に努めた。 「七十二翁真菴鈴木重遠」の下に、白文下駄判の「重遠」の落款印が押されている。 |