後藤 漆谷 ごとう しっこく
   

誰家十萬碧琅玕
箇箇春雲秀可餐
我是王猷君更熟
何妨一問主人看
(明)王世貞 題沈參軍竹林圖(弇州四部稿巻四十八)

寛延2年(1749)生〜天保2年(1831)5月歿
 讃岐(香川県)高松出身。名は苟簡、字は子易・田夫、家が袋屋であることから通称は袋屋勘四郎。初め木齋と号したが後に漆谷と改めた。
 若き頃から隠居し、後藤芝山らに学び、趣味三昧の人生を送った。城下でも豪商として知られ、文化12年(1815)頼山陽が来訪、柴野栗山・長町竹石など雅友が多かった。また、福山の菅茶山とは同年代で共に長寿だった為、深く親交した。
 詩書共に評価が高く、山田梅村は「吾が讃岐の文人巨壁」とまで言っている。
 書は中国の真蹟を収集して研鑽し、端麗で格調高く品格が有り、その人柄が偲ばれる。
 詳細な記載は『随筆讃岐の文人』に見られる。
「漆谷七十七翁書」の下に、白文の「苟簡之印」、朱文の「漆谷山史」の落款印が押されている。

推奨サイト
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%BC%86%E8%B0%B7-1075202
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-2423.html
http://space.geocities.jp/mt9882axel/kusanagienseki.html
http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000009800809.php


『随筆讃岐の文人』(草薙金四郎 1942年)P7〜P14 より転載

茶山と後藤漆谷

茶山と漆谷
讃岐文人墨客にして茶山と交を結び、其の教を受けた者は頗る多いが、就中漆谷ほど茶山と親交したものは少ないであろう。茶山の漆谷を遇する常に叮重なる辭をもって漆谷老翁老丈と呼んでゐるから茶山にとっても、漆谷は畏友であり、莫遡の朋であったのだろう。
現に茶山の廉塾講堂の襖には數葉の漆谷筆の詩が貼られてある。

廉塾訪問
漆谷が始めて茶出に逢ったのは何時の年であるかは不詳であるが廉熟訪問録によって見れば、文化六年五月二十一日に漆谷は佐々木雲屋と云ふ同郷の讃岐の畫家と共に茶山を訪間してゐる。
雲屋は香川郡鶴市の人で、かの畫家三石の一人、長町竹石の高弟で、特に山水花竹に妙筆を殘してゐる。訪問した時は雲屋が三十三の壯年で漆谷は六十一の還暦、そして茶山は一才年上の六十二才であった。この訪問録に奉謁などと書き、且つ仕所、名、字、號も鮮かに記せられてある處から考へると、これが漆谷、茶山の初面接であったかとも思はれる。

後藤漆谷略傳
後藤漆谷は名は苟簡、字は子易又は田夫、初め木齋と號してゐたが後に漆谷と改めた。通稱は袋屋勘四郎、高松鹽屋町の豪商で詩書共に功妙であつたが、特に書は彼の最も得意とする處であつた。
五山堂詩話巻二に於て菊池五山は、
狹貫人物以滕漆谷苟簡張竹石徽爲最。二人種々相反。而交道殊厚。滕性温藉、張性磊落。滕以書勝、張以畫勝。滕有茶癖、張有酒癖。至詩則滕?出張之上。滕詩極富姑録數首。
と述べて長町竹石と比較してゐるが、蓋し言簡にして、よく二文人を盡してゐるものであらう。
山田梅村も亦、漆谷を吾讃文人之巨擘と稱してゐる。更に又、讃岐の文雅は多く漆谷、竹石の二翁より發してゐるとも云はれてゐる。落款多くは滕苟簡とある。號の漆谷は彼の別墅山田郡新田の小字漆谷より採ったと云ふ。天保二年五月八十三の長壽にて歿した。墓は高松西方寺にあって菊池五山が碑文を撰し、大窪詩佛が書いてゐる。

在京中の茶山と漆谷
備後郷土史會發行の「茶山年譜」に依れば、文政元年七十一歳の茶山は三月六日に發装して京游に就き、同行は牧周蔵、林新九郎、臼杵直記(牧野默庵のこと)、渡邊鐵蔵で別所有俊はその道連れであった。茶山は之を最後の旅行として五月廿九日に歸郷した。この際に楠公墓下の大作や次の如き吉野の作も成ったのだと云ふ。
一目千株花盡開。滿前只見白皚々。
近聞人語不知處。聲自香雲團裡來。
矢張リ、文政元年三月、七十歳の漆谷も亦京都に出かけて、殆んど漆谷と茶山は毎日往束した。漆谷の游芳野五首の内二を次に示さう。
游装恰是属芳辰。欲賞芳山爛漫春。
途遇歸人問花侯。上番聞遍在明晨。
麗日和風春十分。山櫻開遍未紛紛。
一眸俯瞰千株白。難辨是花還是雲。
この詩は漆谷の代表作として、讃岐の棲碧山人輯、五柳道者、暮溪外史校になる「近人小詩」巻之四に載せられてゐるものである。

漆谷宛の山陽尺牘
茶山と山陽との開係は世既に熟知す、漆谷も亦山陽と親交あり。文政元年茶山や、漆谷が上京した三月には、山陽は長崎に向って出發してゐて京にはゐなかった。漆谷は五月中旬迄即ち茶山の歸クする迄日々往來して文雅の事に日を消した。
九州旅行中の山陽からは文政元年九月三十日付にて、次の如き尺牘が漆谷宛に届いた。
これ亦、茶山、漆谷、山陽の雅交を知るに足であらう。
海出杏然なれども、相思不隔、郵便附數字候。今年西遊。國元より風斗存立行侯事にて、處々違約、殊に遺憾は、茶(山)翁、老丈、皆々御上京のよし、左様の事をしり候はゞ、西遊は今年に不限事、且長崎に、今年はよき唐人も居不申、書畫古玩何ぞ獲物も無之、眞に可笑事に御座候、京の盛事にハヅレ侯は、畢生一大恨事に御座候へ共、留守に鳩居(堂)敢斗、拙蔵物ども入御閲候よし、千里外承、頼有是耳ど存候。
此行に上り候ものは酒に御座候。崎、薩どもに有浪華酒候て相飲候。腹は?ぶたにて錦繍は何方へやら参申候。されども少々は有之侯。
歸郷後懸御目可申侯。此度茶翁へ長タラシキ一詩遺申侯。御轉看可被下侯。崎には無書畫。薩肥には有之侯。何卒今一度御上坂可被成、懸御目度侯。屠隆眞蹟も(旅中)齋來侯故、漏御覧遺恨に候。爲差用も無之侯へ共上國舊交御なつかしく存侯故如此に御座候。
私も何れ今臘中には婦京と存候。頓首
九月 晦                           襄
漆谷老丈
尚々得清蕭尺木山水巻。自跋に擬黄大癡者、?務墨氣、而不知筆氣と申事之珍論に候。
書添申候。柁原(藍渠)丈如何被成侯や、御序によろしく奉希候。薩は蕎麥よろしき所にて毎々たべ存出申候と被仰傳可被下候
崎にも薩にも上方迎子有之、老丈所謂ほしかぶらにて一向埒明不申候。是殘念に候。春琴などならばのがさぬ所と存候事毎々に候。
○如亭人遊貴地候様承申候。今程蹄候や、カセギに候や、僕も此度ば物入候□□計にて歸京、舊店取立も六ケ敷と存候。よき工面ども御座候はゞ御しらせ可被下候。
唐人揚少谿、陸品三などに度々出會、是等より大分雅品餞くれ申候。竹窓、高士奇鑑定印ある畫一冊をもらひ申候。是等皆々春琴には先々御隠し置可被下候。
これが山陽尺牘の全文である。文中、茶山、漆谷の上京を知って殘念がり、「京の盛事ハヅレ侯は畢生一大恨事に御座候」などは例の山陽らしき文辭にて如何にも面白い。尚、他に二通ほど、山陽より漆谷に宛てた書状があるが今は、それが主題でないから一切省いて触れぬ事とする。


参考文献一覧      HOME