酒井 忠篤 さかい ただずみ
   

仙鶴喜欲舞
   
老梅寒自花
宋 林尚仁 過友人幽居の二句
138.5p×32p×2

嘉永6年2月13日(新暦 1853年3月22日)生〜大正4(1915)年6月6日歿
 出羽庄内藩11代藩主、左衛門尉酒井家13代当主、旧庄内藩主 酒井家15代当主。幼名は繁之丞、蓬堂・拗鳴と号した。神号は忠篤命。
 9代藩主・酒井忠発の五男として生まれる。文久2年(1862)、義兄で10代藩主の酒井忠寛が死去したため、その養子として後を継ぐ。文久3年(1863)10月26日、従四位下、左衛門尉に叙任する。
 翌年幕命を受けて江戸市中取締の任に当たり元治元年(1864)には17万石高に加増された。
 慶応2年(1866)、大凶作で減税を求める郡中騒動が起こるが、主流派(佐幕派)によって鎮圧された。この功績により藩内で勢力を持った主流派は、慶応3年(1867)に藩政改革や政治方針で対立していた公武合体派を逮捕投獄・粛清して、藩論を佐幕派で統一した(「丁卯の大獄」)。そして同年12月25日には薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちした。
 慶応4年(1868)からの戊辰戦争では、幕府軍が敗れた後も奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦い、連戦連勝した。しかし、周辺の幕府派の藩が次々と降伏する事態を受け、ほぼ無敗のまま9月25日に降伏し、9月27日に開城して東京芝清光寺にて謹慎を命じられた。12月7日には新政府に反逆したとして、改易に処せられた。後に庄内藩は弟の酒井忠宝が藩主となり、12万石に削減された上で存続を許された。
 明治2年(1869)9月23日、忠篤は罪を許され、東京に在住した。明治3年(1870)に薩摩に移った。明治4年(1871)7月に兵部省に出仕し、明治5年(1872)2月、20歳で陸軍少佐に任じられた。同年3月辞任し、4月からは軍制研究のためにドイツに留学し、明治12年(1879)6月に帰国した。その間、明治10年4月、陸軍中尉に任官する。
 明治13年(1880)2月、養子忠宝の隠居により、再び家督を相続した。同年3月、政界から引退した。同年4月、病を理由に陸軍歩兵中尉を辞任する。明治14年(1881)に鶴岡へ帰っている。帰郷後は菅実秀の師事の元で開墾・養蚕・金融・米穀等庄内における経済基盤の確立に尽力した。
 明治17年(1884)7月に華族令によって伯爵となった。明治23年(1890)には同志による「南洲翁遺訓」を刊行した。漢詩や書・釣をよくし晩年は庄内の教学「庄内学」の振興に努めている。
 大正4年(1915年)5月正二位を受けるが、同年6月6日に死去した。享年63歳。
 「呦鳴書」の下に、白文回文の「源忠篤印」、朱文の「呦鳴」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E7%AF%A4_(%E5%BA%84%E5%86%85%E8%97%A9%E4%B8%BB)
http://blogs.yahoo.co.jp/me468646/25389617.html
http://www.keratutuki.com/sakai/sakai.html
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%8E%F0%88%E4%92%89%93%C4_(%8F%AF%93%E0%94%CB%8E%E5)/
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/sakai.html
http://d.hatena.ne.jp/keywordmobile/%8E%F0%88%E4%92%89%93%C4?kid=243288


参考文献一覧      HOME