小澤 蘆庵 おざわ ろあん
   

    橋雨をよめる

  志 いしこそ
        ぬれしと人の
  いそきけれ
        ゆきゆき飽ぬる
  雨の川はし
   橋雨を詠める

志 意地こそ
    濡れじと人の
         急ぎけれ
   行き行き飽ぬる
         雨の川橋
40p×30.8p

享保8年(1723)生〜享和元年7月11日(新暦1801年8月19日)歿
 尾張犬山竹腰家家臣小沢喜八郎実郡の末子として大阪に生まれる。名は玄仲、玄沖。通称は帯刀。観荷堂・図南亭・孤鴎・七十童・八九童と号した。10代の頃、尾張藩京都留守居番本荘家の養子となり本庄八郎と称したが、のち小沢家に復した。
 武士としては尾張藩家老の家臣であり、国学者としては尊王論を展開した。
 30歳の頃、冷泉為村に入門し和歌を学ぶ。伴蒿蹊、澄月、慈延と共に冷泉門下の平安四天王と呼ばれた。宝暦7年(1757)、鷹司家の家人になるが、明和2年(1765)、出仕を差し止められ、致仕。時に43歳。以後貧窮のうちに和歌に専念する。伴蒿蹊・本居宣長(蘆庵は宣長より7歳上)・上田秋成・蒲生君平などとも交遊している。
 次第に常上派の流風にあきたらず、賀茂真淵らの擬古派(=万葉調)を否定し、歌論『布留の中道』(寛政12年刊)で『古今和歌集』序を範とし技巧を廃した『ただごとうた』を唱え、自然の感情を飾りないことばで歌うべきであると主張した。その新風は香川景樹、大田垣蓮月ら多くの歌人に強い影響を与えた。
 安永2年(1773)、51歳の年、為村に破門される。天明8年(1788)正月の大火により洛中の自邸を焼失し、以後寛政3年(1791)まで洛西太秦の十輪院に幽居する。この間、門下の妙法院門主真仁法親王(光格天皇の実兄)の訪問を受けた。寛政4年(1792)には洛東岡崎に移り、本居宣長・上田秋成・香川景樹などの訪問を受ける。
 歌書にはほかに『ふりわけ髪』など。家集には文化元年(1804)成立、同8年刊行の自撰家集『六帖詠草』、同集に洩れた歌を門人が編集して嘉永2年(1849)に刊行された『六帖詠草拾遺』があり、また自筆稿本『六帖詠藻』(静嘉堂文庫蔵)、研究書『歌合部類』『類題六帖』『難蔵山集』『古今六義諸説』などがある。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E8%98%86%E5%BA%B5
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/ozawa.html
http://base1.nijl.ac.jp/~rekijin/20000638/index.html
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%8F%AC%91%F2%E5b%88%C1/
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C227R100.HTM
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/roan.html
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa015.html
http://spysee.jp/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E8%98%86%E5%BA%B5
http://fine-vn.com/cat_15/ent_5.html
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi03/chi03_03535_0074/index.html
http://www.nagaragawagarou.com/C-024.htm


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