尾上 柴舟 おのえ さいしゅう
   

かとふきて ひかりななめに さすつきに
○すむ三つの なみうごくみゆ
12p×32.5p

明治9年(1876)8月20日生〜昭和32年(1957)1月13日歿
 詩人、歌人、書家、国文学者。
 岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身。本名は尾上八郎。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ、同藩士・尾上動の養子となった。東京帝国大学文科大学卒業。哲学館(現東洋大学)、東京女高師(現御茶の水女子大学)、早稲田大学などで講師、1908年から女子学習院(現学習院女子大学)教授。平安時代草仮名の研究をつづけるとともにその書家として聞こえてきた。
 単短歌は一高時代に落合直文「あさ香社」に入り新風を学ぶ。1901年に『ハイネの詩』を刊行、翌年には金子薫園と共に『叙景詩』を刊行し、明星派の浪漫主義に対抗して「叙景詩運動」を推し進めた。大正3年水甕社をおこして主宰し、自然主義短歌の先駆をなし、晩年には温厚で内省的な性格と深い国文学的教養から歌風は円熟して典雅となった。
 書を大口周魚に師事。1937年には書家として帝国芸術院会員となる。1946年に東京女高師名誉教授、1949年に歌会始選者。「いかづち会」、歌雑誌「水甕」等を主宰。散らし書きを得意とし平安朝の格調高い書風を現代に蘇らせた。
 柴舟は高々と調和体を提唱し、文検の受験課目に「調和体」をとりいれた。著書の『調和体の研究』に、「日本化した漢字、漢字から出て原形も認められぬほど日本化した假名。これの兩者によって、自分らは日本文を書くべきである。」とある。一方で「お家流は、まことに調和体に成功してゐる。この點のみから見れば、立派なものである。しかし、初のもの措く。次々になると、品位が低く、氣力が乏しく、豐肥に過ぎ、遲重に流れて、價値の甚乏しいものである。今日これによるのは、藝術的良心の許さぬところである。自分はどうしても平安朝に歸らねばならない。」とある。柴舟は当時の御家流への反発にとどまらず、「平安朝復興に止まらず、新平安朝建設」を提唱した。
 歌集に『静夜』『永日』『白き路』『空の色』『間歩集』、歌論に『短歌滅亡私論』、書論に『平安朝時代の草仮名の研究』『歌と草仮名』『調和体の研究』などの著書がある。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E4%B8%8A%E6%9F%B4%E8%88%9F
http://d.hatena.ne.jp/udumaki55/20070729
http://www.flot.gr.jp/anaba/tokusuru/mukashi_onoesaisyu.htm
http://www012.upp.so-net.ne.jp/shonokousaten/03kousa/genndaisho1.html
http://www.city.kasugai.lg.jp/shisetsu/tofu/syuzouhin/onoesai.html
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/onoe_s.html
http://kakaku.ecnavi.jp/item_info/20691051570841.html


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