大内枝翠 おおうち・しすい
   

明治32年(1899)生〜昭和57年(1982)7月25日歿
制作年 昭和44年(1969)  (34p×136p)
 清水市西久保に生まれる。名は敏雄、字は士欽、枝翠・翠々居と号した。大正10年(1921)に上京し、深川に書塾を開いた。漢字を松本芳翠先生に、仮名を高塚竹堂先生に、篆書を安達オ邨先生に師事した。が、大正12年の関東大震災で静岡に転居する。
昭和12年、高松宮殿下の御前揮毫の栄を賜った。昭和15年の静岡大災で焼失し、麻布桜田町に転居すが、昭和20年の戦災で三度焼失。後、静岡に転居した。
 この間、昭和15年から19年、東京都庁・日本勧業銀行・大東亜省に書道講座を開き講師となる。昭和22年から37年までの15年間にわたり清水女子高校の教諭を務めた。
 一方、南画を高橋雲亭先生・大橋廉堂先生・日下部道壽先生に師事し、山水・四君子を得意とした。また井上舒庵先生・仁賀保香城先生に作詩の指導を受けた。
 (財)書海社理事・審査員、毎日展審査員、静岡県書道連盟顧問、翠々会・翠紅会会長を務めた。
 この墨竹は右の手紙と共に頂戴したもの。


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