大橋 二水 おおはしにすい
   

水火何家不可無
歡之一日叵扶持
將他別保玲瓏名
鐵管縦横活?都
釧路?路之一
水火(非常な苦しみ)何れの家も不可(かならず)無し
観の一日 扶持しがたい(叵)
将に他(かれ)別に保つ 玲瓏(=美しく澄み切っている)の名
鉄管縦横 活?の都
釧路?路の一
133.9p×32.2p

安政6年(1859)生〜昭和15年(1882)2月歿
 大橋二水は富山県高岡の人。本名十右衛門。安政六年生。富山県会議員、同県選出衆議院議員として、政界に活躍したが政界を退いて後、晩年は金沢味噌蔵町下中町に仮寓し詩作を楽しみ、書を以て米塩の資を補った。詩は木蘇岐山に学んだものであり、片口江東(小杉の人、富山県会議員。歌人片口安之助の父。)黒本稼堂らとも交遊があった。富山県下の各地吟社のほか金沢の対龍吟社、大聖寺の心永吟社などの盟主となっていた。昭和十五年二月、八十二歳を以て金沢の仮寓で死去したが「遣品只有弊硯与禿筆。其恬淡可憶焉。」という状態で(二水遺稿)あったという。死後「二水遺稿」(昭二十四、十。高岡娯分吟社刊)が刊行せられた。(『石川県史』現代編2より転載)
 「二水弘」の下に、白文の「大橋弘印」、朱文の「伯毅」の落款印が押されている。


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