小川 平吉 おがわ へいきち
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緑鬂(=黒々とした鬢の毛)駝顔 七十年 老来たるも元気 衝天(=勢いが盛んな様)を欲す 雪冤(=無実の罪を濯いで青天白日の身となる)伸し枉(まげ)る 幾千百 尚人間を濟(すく)い 仙(=仙人)を願わず 今村仁兄(=今村力三郎 下記参照)古稀寿を賀す |
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今村 力三郎( いまむら りきさぶろう) 慶応2年5月2日(新暦 1866年6月14日)生〜昭和29年(1954)6月12日歿 明治-昭和時代の弁護士。足尾鉱毒事件、大逆事件、森戸事件、帝人事件、五・一五事件などの弁護を担当。被告の人権擁護につくした。昭和21年専修大総長。信濃(長野県)出身。専修学校(現 専修大)卒。旧姓は蜂谷。著作に『法廷五十年』。 |
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132.8p×33p |
明治2年12月1日(新暦 1870年1月2日)生〜昭和17年(1942)2月5日歿 制作年 昭和10年(1935) 65歳 |
信濃(長野県)の出身。名は平吉、射山と号し、別荘を帰去来荘と言った。明治25年(1892)帝大法科大学卒業後、官僚を嫌い弁護士となる。 同郷の渡辺国武との関係から明治33年(1900)、立憲政友会の創立に参加。明治34年(1901)近衛篤麿に従って大アジア主義の東亜同文書院結成に参加。明治36年(1903)衆議院議員に初当選、政友会を脱党。東亜同文会、国民同盟会、対露同志会に参加、対露強硬論を唱える。また、日露戦争後、ポーツマス条約に反対して、明治38年(1905)9月、日比谷焼き打ち事件に連座し下獄。 明治43年(1910) 政友会に復党、翌44年 幹事、原総裁のもとで大正4年(1915) 幹事長・大正7(1918) 相談役・大正8(1919)総務委員。大正9(1920)政府の国勢院総裁。大正14年(1925) 加藤高明内閣の司法大臣として治安維持法制定に参画。1927(昭和2) 田中義一内閣の鉄道大臣、駅名標を右横書きのみにしローマ字を全廃した。対中強硬論を唱え、山東出兵などを推進、幣原外交と対立。のち昭和4年(1929) 私鉄疑獄・売勲事件に連座し入獄、政界を引退した。 平吉には“タコ入道”、“オガ平”、“ズル平”といったあだ名がつけられていた。 「射山吉」の下に、朱文の「小川平吉」、白文の「射山」の落款印が押されている。 推奨サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%90%89 http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ogawaheikichi.html http://www.c20.jp/p/oheikici.html http://fine-vn.com/cat_14/ent_29.html http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%8F%AC%90%EC%95%BD%8Bg/ http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-1200.html |