中山 愛親 なかやま なるちか
   

浦鶴   
            愛親
千世ふへき      
ちぎりて津の
       国の

なかひの浦に
    あそふ友
         鶴
浦鶴   
            
千世ふべき      
ちぎりて津の
       国(=摂津)の

ながび(=永日)の浦に
    あそぶ友
         鶴
津の国(=摂津) 現在の大阪府西北部と兵庫県南東部付近
ながび(=永日) 昼間が長く、なかなか日が暮れない一日
41.5p×55.3p

寛保元年5月25日(新暦1741年7月7日)生〜文化11年8月18日(新暦1814年10月1日)歿
 江戸時代後期の公家。名は愛親、号を惜陰室と称し、中山栄親の次男で、母は勧修寺高顕の娘。
 宝暦11年(1761)参議に任命され、明和7年(1770)8月正二位、安永3年(1774)権大納言に任じられたが、翌4年辞した。天明2年(1782)議奏となり、同4年権大納言に還任した。光格天皇の側近として活躍した。
 寛政元年(1789)、光格天皇生父閑院宮典仁親王へ太上天皇の尊号宣下問題で、武家伝奏正親町公明と共に幕府老中松平定信と折衝を重ねたが、幕府はこれを認めず事態は紛糾した(いわゆる「尊号一件」)。
 寛政5年(1792)幕府の命により武家伝奏正親町公明とともに江戸に召喚・訊問された。老中松平定信と対談、釈明したが、3月責任を負わされ蟄居を命じられた。6月蟄居は許されたが、議奏は罷免された。
 この事件から、「中山愛親が勅使として江戸に下った際に、江戸城の将軍の前で堂々たる抗議をした」という伝説が生まれ、これを元に『中山東下記』『中山伝記』といった小説(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)が密かに書かれている。またこの経過に触れている漫画として、みなもと太郎の「風雲児たち」がある。
 明治時代に入り、明治17年(1884)従一位が贈られている。
 尚、彼は、能書家として名を馳せた花山院愛徳の実兄である。

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