成島 柳北 なるしま りゅうほく
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仙鶴 何れの晩に帰る 黄昏(=たそがれ) 未だ扃(=両開きの戸)を掩わず 案頭(=机上) 花氣(=花の香り)白し 月に映じて 茶経(=茶道の本)を読む |
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最大45.5p |
天保8年2月16日(1837年3月22日)生〜明治17年(1884年)11月30日歿 |
奥儒者図書頭成島筑山の三男として江戸浅草に生まれる。幼名甲子磨・甲子麻呂、のち甲子太郎、大隅守、22歳のとき惟弘と改めた。諱は弘、字は叔氏A保民、確堂と号した。別に何有仙史・我楽多堂・不可抜斎・柳北とも号したが、のち柳北を通称とした。幼少から祖父司直と父の教育を受けて読書に励み、詩文に長じた。 嘉永6年(1853)父を喪ない家督を継ぐ。 安政3年(1856)奥儒者に任命され、徳川家定・家茂に経学を講じる。 安政3年(1855)祖父の司直が編纂した『徳川実紀』と父筑山の著した『後鑑』の訂正を総裁する。 安政4年(1856)12月、布衣となる。 文久3年(1863)、しばしば幕閣に献策を為したが入れられず、その不満を一篇の狂詩に託したことが忌諱に触れ、3年間の閉門。この間、柳河春三・神田孝平・箕作秋坪らを招いて英学を研鑽した。 慶応元年(1865)再び登用され、騎兵奉行・外国奉行・会計副総裁などを歴任。 明治元年(1868)4月、隠居を願い出て許された。幕府の瓦解後は野に下り、明治新政府の招請には応じなかった。 明治4年(1871)浅草東本願寺学塾の学長となり、明治5年(1872)9月〜明治6年(1873)7月まで、東本願寺の大谷光瑩の欧州遊学に随行して仏・伊・英・米を歴訪する。 治7年(1874)『柳橋新誌』を刊行、「郵便報知新聞」の客員となり、9月24日、「公文通誌」を改題した『朝野新聞』に招聘され、以後同紙を主宰し、諷刺に富んだ文章で名声を博す。 明治10年(1877)には文芸雑誌「花月新誌」を創刊した。 明治15年(1882)立憲改進党に入党したが、宿痾の肺患が悪化、48歳で没した。 また、古銭の蒐集家としての名も高く、姪孫に俳優の森繁久彌がいる。 著書に『柳橋新誌』『古銭鑑識訓蒙』『東海遊侠伝』『柳北先生雑録集』『楊牙児奇談』『明治維新撰泉譜』『柳北詩鈔』『柳北全集』『群書類従目録』などがある。 推奨サイト http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/308.html http://home.b-star.jp/~foresta/1/narushima/ http://www.iic.tuis.ac.jp/edoc/journal/jhk/j7-4-3/index.html http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/narushima-ryuuhoku/narushima-ryuuhoku.htm http://www.weblio.jp/content/%E6%88%90%E5%B3%B6%E6%9F%B3%E5%8C%97 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/09/9/0916000.html |