長尾 雨山 ながお うざん
   

錫福

書曰予攸好徳
汝則錫之福此
摘其語丁卯黄
華月 長尾甲
福を錫(与)える。

書に曰く、「わたくしは善い徳を修めています。」というならば、
あなたはこの者に福(=五福)をお与えなさい。(『書経』周書・江範)より
これその語を摘出した。
  黄華=菊花
 五福とは、長寿・富・安らぎ・善徳を修めている名誉・年老いて天年を全うすること、をいう。
 なお、王だけが人に福を与え、刑罰を加え、珍美な食をとる。
27.2p×70.5p

元治元年9月18日(新暦 1864年10月18日)生〜昭和17年(1942)12月6日歿
製作年  昭和2年(1927)  64歳
 名は甲、字は子生、通称槙太郎、雨山・石隠・古矜子・旡悶道人・睡道人などと号し、室名は无悶室・何遠楼・思斎堂・艸聖堂。讃岐高松藩士長尾勝貞(竹嬾)の長子として香川郡高松(香川県)に生まれる。
 幼少の頃から父に従って家学を受け、漢学を修め、天稟の詩才を謳われた。長じて駐日清国公使黎庶昌や書記官鄭孝胥などを驚かせた。鄭孝胥とは、生涯を通じて深厚を結んだ。
 明治21年東京帝国大学文科大学古典講習科(漢書課)を卒業、学習院に勤務。岡倉天心と謀って東京美術学校の創立に尽くし又夏目漱石と同僚で親交が有り、詩の刪正もしたと伝えられる。明治30年第五高等学校(熊本)教授に任じられた。この時同僚であった夏目漱石と親交を深めた。吉川幸次郎『中国書画話』によれば「雨山の功績は時代遅れであった日本の漢学を脱し、作詩作文、あるいは学問的な資料収集において、同時代清朝の学問と肩を並べたことにある。この点で雨山は狩野君山・内藤湖南(いずれも京都帝国大学教授で雨山と親交があった)とともに日本の中国学を新たに開花させた人といえる。
 明治32年に東京高等師範学校教授に転じ、東京帝国大学文科大学でも講師を努めた。明治35年に職を辞し上海に移住、上海商務印書館編訳部に入って編訳事業を主宰し、革命前の中国初・中等教科書の編纂に従事した。この間に鄭孝胥、呉昌碩、羅振玉らの学者文人と交遊をひろめた。雨山は上海の柳林小区という小区に12年いた。ここは緑も多く、通路も広く、2階建てのレンガ造りの長屋も雰囲気があり、風格のある小区だった。解放前は、赫林里と言っていたようで、当時は、それなりの地位のある人たちが住んでいたと思われる。
 大正3年(1914)に帰国し京都に寄寓、書家として著述、揮毫、詩作などの詩書三昧の生活を送った。その詩は、初め国分青高ニ同じく「明の七子の風」を唱え、副島滄海(種臣)の知遇を得た。後には唐宋にも出入してその長を採り、獨自の境地を拓いた。また書は天才的で、平安書道会副会長、日本美術協会評議員などの役をつとめた。いかなる書体をも良くこなし、老境に入っても秀麗な筆致を失わなかった。草書の整って美しいことは他に比をみない。詩のみならず文にも巧みで、また画は竹を得意とし、書画の鑑識にも一家言を有し、在野の学者としてまた文人として関西に重きをなした。昭和17年4月1日、京都市上京区西洞院丸太町上るの自宅で没した。
 雨山の著作はほとんど公にされていないが、唯一、『中国書画話』(1965 筑摩書房)は現在でも入手できる。この書は中国の書画についての講演を編集したもので、初心者にも親しみやすい。また「碑帖概論」という一章では中国の金石文について説明しており、石碑探訪者として参考になるところが多い。末尾につけられた吉川幸次郎の解説は雨山の功績を語って余すところがない。
 「長尾甲」の下に、呉昌碩刻の白文の「長尾甲印」、朱文の「石隠」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/sen25.htm
http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=na&s=160


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