長瀬 時衡 ながせ ときひら
   

赤間關頭繋行舟
蘆花楓葉滿江秋
故山山脉從獻盡
初入鎮西第一州
小倉城
赤間の関頭(=関所) 行舟を繋ぐ
蘆花楓葉 江秋に満つる
故山(=故郷)の山脉(=山脈) 献(=先頭)に従って尽きる
初めて入る鎮西(=九州) 第一州
   
赤間の関=小倉の対岸、山口県赤間関市(現 下関市)で、日清講和条約を締結した場所
小倉城=現 福岡県北九州市小倉地区にあった城。細川忠興が慶長7年(1602)に築城、小笠原氏が改修し、慶応2年(1866)廃城となった。長瀬時衡は前年に藩医となっている。
30.0p×139.0p

天保7年2月12日(新暦 1836年3月28日)生〜明治34年(1901)9月27日歿
 名は元蔵、通称は古輔、号は静石。大坂で緒方洪庵の適塾に学ぶ。のち京都・長崎に遊学し、郷里の備前に帰り岡山で開業した。慶応元年、藩医となる。
 維新後、兵部省に勤め、広島鎮台軍医長・軍医監などを歴任した。
 明治18年、赤十字病院長軍医総監橋本綱常(城晃)が欧米諸国に視察したとき、各国病院にてマッサージの外科応用の理論に親しく実見して帰国し、部下であった長瀬時衡に紹介した。広島博愛病院院長であった長瀬時衡は同病院に整形外科療法の一助として医療現場に採用した。これが日本医療マッサージの始めで、長瀬時衡は明治26年(1893)、日本初のマッサージ書『?氏按摩術』(『Die Technik der Massage』Dr. Albert Reibmayr著)を翻訳した。
 儒仏に通じ、詩歌俳諧を能くした。
 「静石」の下に、白文の「長瀬衡之印」、朱文の「元號餘?」の落款印が押されている。

推奨サイト
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http://tao.main.jp/anma_pukiwiki/index.php?%B0%C4%CB%E0%A5%EA%A5%F3%A5%AF%BD%B8
http://www3.tok2.com/home/anchan13/syugiryouhou/massa-ji.htm


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