室 鳩巣 むろ きゅうそう
   

古屋無人犬護籬
偶抛塵土得幽棲
不知何福能消受
滿地松陰一鳥啼
古屋 人無く 犬 籬を護る
偶に塵土を抛げ 幽棲(=静かな住まい)を得る
知らず 何ぞ福(=さいわい)す 能く受を消す
満地松陰 一鳥啼く
132.0p×27.8p

万治元年2月26日(新暦 1658年3月29日)生〜享保19年8月12日(新暦 1734年9月9日)歿
 通称と本名は新介直清、字は師禮、鳩巣と号し、別号は滄浪。
 父の玄樸(号は草庵)は医者。母は平野氏。鳩巣には2男4女がある。
 武蔵国豊島郡谷中村(現 東京都台東区谷中)に生まれる。寛文12年(1672)15歳で加賀藩に出仕し順祥と号する。藩主前田綱紀に『大学章句』を講じて賞賛を受け、京都遊学を命ぜられる。木下順庵に師事して朱子学を学ぶ。また羽黒養濳に闇斎系朱子学を学ぶ。江戸に帰り、貞享3年(1686)29歳で金沢に移る。羽黒養濳の金沢転居に伴ない、常にその教えを受ける。
 元禄15年(1702)45歳、朱子の説を忠実に注釈した『大学章句新疏』を著わした。翌年、『赤穂義人録』を著し、赤穂浪士の行動を賛美した。
 1711年54歳、同じ順庵門下の新井白石の推薦で幕府出仕。このころ白石に隠退をすすめる手紙を送る。
 1716年7代将軍家継死去、吉宗8代将軍就任に伴い、白石は退けられ、鳩巣はブレーンとして享保の改革を補佐した。
 吉宗は林鳳岡が主宰する湯島聖堂の講席が沈滞しているのを不満として、同年鳩巣59歳のとき、鳩巣はじめ順庵門下の儒者を登用して高倉屋敷を設け、聖堂とは別に講席を開かせた。しかし、この学館も振わなかった。
 享保7年(1722)、新設された殿中侍講に任ぜられる。享保10年(1725)68歳のとき、西城侍講(西丸奥儒者)に転ずる。鳩巣は朱子の学説を忠実に順守しようとし、陽明学・仁斎学・狙徠学を批判した。また同じ朱子学であっても闇斎学を批判した。鳩巣は幕府中心主義で、将軍を王と呼んだ。銀座鳩居堂の命名者でもある。
 著作は上記の他に『五常名義』『五倫名義』『周易講義』『太極図述』『駿台雑話』『献可録』『兼山麗沢秘策』などがある。
 「鳩巣」の下に、白文の「師禮氏」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E9%B3%A9%E5%B7%A3
http://www.weblio.jp/content/%E5%AE%A4%E9%B3%A9%E5%B7%A3
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S070L100.HTM
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/07/0/0700340.html


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