森田 節齋 もりた せっさい
   

  柳邊春水艇
  花外夕陽山
 柳山水
柳辺 春水の艇
花外 夕陽の山
132p×29.1p

文化8年(1811)11月生〜慶応4年(1868)歿  
 字は謙蔵、諱は益、号は節斎、晩年は山外節翁と称し、また五域愚庵とも号した。大和(奈良県)五条辰巳街で森田家の三男として生まれる。父は医者の温文庵。時の名医川越衡山について京都で医術を学び、出藍の誉れ高く、五条で開業したときは、門前市をなす程に繁盛したという。性格は仁孝で、貧しい人からは決して治療費をとらなかったといわれている。母は武田氏の出であり、後妻として入り、節斎のほか・勘の二弟を産んだ。このほか、先妻の産んだ義兄二人がおり、長男は早く死亡、次男淡は、節斎らとともに四人兄弟として育てられた。
 11歳の時父が死亡した。母は子供を育てるのに専ら学問をすすめ、質素厳格な教育を施したという。その節母賢母ぶりは、五条代官天島氏から褒賞されている。
四人兄弟のうち、節斎を除いた三人は皆慧敏であったが、独り節斎だけは、笑顔を見せて友達と遊ぶこともなく、素足で歩いたり、帯が解けても結ぼうとせず、他人に挨拶もできないといった具合で、遅鈍であったので、村人は、森児の三一と呼んでいたという。三は慧、一は痴という意味であった。
 成童した節斎は、兄の淡とともに京に上り、猪飼敬所について医術を修め、頼山陽に師事して学問を学んだ。
 このころには山陽もその才を激賞するまでになっていたという。やがて江戸に下り昌平黌に入り、古賀?庵について業を学ぶこと3年、学業文藻大いに進んだ。
 天保2年(21歳)、昌平黌を去り四方に遊び、安井息軒、塩谷宕院、野田笛甫らと交わった。天保8年(27歳)母の喪に服し、後備中に止まること数年、弘化元年(34歳)京都に出て、誓度寺で弟子をとって学問を教えた。この頃からの節斎は、そのすぐれた文才と、”弁難攻撃余力を残さず”といわれた如く、激しい憂国の弁論が、幕末における尊皇攘夷論者の総帥としての地歩を固めていった。その弁論たるや縦横談論傍に人なきが如く、その文章たるや”言簡なりと雖も、辛刻骨を貫き、諷刺腸をえぐる”と評せられ、”言論、文章とも一世を震い、名声海内に鳴る”と記録されている。
 この頃、節斎と交わった志士としては、梅田雲浜・頼三樹三郎・宮部鼎蔵等があり、門下生としては、いわゆる森門の四郎と呼ばれた、巽太郎・吉田寅次郎(松陰)・江幡五郎・乾十郎らをはじめとして、日下玄瑞・安元社預蔵・万才庄助ら多士済済であった。
 また、この頃は外国船がしきりに日本海近海に出没し、まさに海内騒然たる時代である。門下生吉田松陰は禁を犯して自首して獄に下り後長州に預けられた事件があったが、節斎は、獄中に詩を贈り、愛弟子を激励している。勤王の志士相次いで囚に赴くに及んで、憂憤おく能わず、梅田雲浜、春日潜庵らと密かに謀り、志士を糾合し、十津川郷士等と連絡してことを起こそうとしたが、幕府に疑われ、身の危険が迫ったので、一時、備後の国、藤江村に隠れた。雲浜等は、しばしば書を送って帰郷を促したが、故あって帰れなかった。
 藤江村におること数年、万延元年5月、姫路侯に招かれたこともあったが、しばらくして備中広島某に招かれ、倉敷において学校を設立、学問を講じた。集る門下生270名、倉敷地方における尊皇運動の発祥の地となった。ちょうど吉田寅次郎が松下村塾を経営したのと同時代であった。
 節斎の教育法は、主として志気を養成することを主眼としていた。従って入門を請うや、まず「荊軻風蕭々与の歌」を吟じ、「了とするか」と問い、諾意を表した者に初めて入門を許したという。これは古歌を借りて、暗に士節を諷し、その気骨を試したのである。ために門下生から国事に殉ずる者が特に多かった。大和天誅組の決起も、節斎の指導に負うところ多大であった。このため、当路に忌まれ、注意人物の巨頭として警戒されるようになったのである。
 節斎は体重17〜8貫、髪は茫茫、風彩に頓着なく着のみ着のままで、全く飾り気のない一貧儒に甘んじた。酒を好み、酔うほどに縦横談論、傍若無人、天下国家を憂え大義名分を説いた。その言行から、人々は、狂人の如く言ったが、有り余る才知と、脈々たる気骨節操が、思うに任せない世相から、俗人には理解できない言行となって反映したものである。
 節斎は、文学や政治だけでなく、実業界の人々にも大きな影響を与えていたらしい。倉敷紡績の創業者である大原孝四郎の父壮平は、当時倉敷に塾を開いていた節斎から「謙受」の精神を教えられた。すべからくトップになると傲慢になり油断し堕落するので、常に「二、三の精神」で、すなわち二位あるいは三位の位置にいるつもりでより向上を目指して反省、努力するべし、と。これから、倉敷紡績の社標は、「二三」を表す図形が導入されたという。
 慶応3年、幕府の追求ますます濃くなったので、門人等は、旧里五条に帰らせ、栄山寺の傍に寓居させたが、ここでも幕吏の偵察が厳しく、知友等は、再び小舟で紀州に逃れさせた。いったん、名手の林竜渓宅に寄居していたが、ここも安心できない状態であったので、高野寺領である荒見村の北長左衛門宅の食客となり、愚中庵善通寺に隠れた。時に慶応2年6月であった。
 幕末勤王の先駆者も、いまや追われる身、懊悩やるかたなく、ために晩年は、いささか自棄の風あり、座中にても放尿して平然としていたという。大才時にいれられず、浮き世を捨てた心理状態となったのであろう。
 明治元年7月26日、維新の夜明けを見ることなく病をえて歿した。行年56歳、門人等が愚中庵善通寺に葬った。法名「竹奧院山外節斎居士」という。
 「山外節翁」の左に、白文の「森田節斎」、朱文の「山外逸民」の落款印が押されている。

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