水谷 奥嶺 みずたに おくれい
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蓋世(=世を圧倒する)の功名 一夢過ぎる 夕陽 空しく照らす 旧山河 江東の子弟(=鹿児島私学校の生徒) 慓悍(=すばしこく荒々しく)として従う 垓下(=終焉の地)の秋風 遺恨多し |
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江東とは、長江下流の地方。今の江蘇・浙江省のあたり。 垓下とは、漢の高祖の軍勢が、楚の項羽の軍勢を追いつめて、とり囲んだ所。 |
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明治10年(1877)、鹿児島の私学校生を中心とした士族が「西郷隆盛」を擁して挙兵した西南戦争を、三国志に例えて詩に読み込んでいる。 | |||
131.5p×46p |
嘉永元年(1848)生〜没年不詳 |
本名は弓夫。漢詩人。明治39年に『北海紀行』という漢詩集を発行しており、美濃の人とある。漢学を神谷簡斎に、国学を母方の祖父植松茂岳から学び、水谷女学校や土岐郡立陶器学校(現、多治見工業高校)等の設立に尽力した教育者で、同時に漢詩人としても有名。岐阜県強度資料研究協議会が明治15〜16年に発行された雑誌(初巻なし)を合巻し復刻した『華山新誌』には、東京
水谷奥嶺とあり、従五位 高崎正風とともに当時岐阜県下の漢詩壇にあった小崎利準・杉山三郊・神谷簡齋・渡辺霞亭等とともに載っている。(参考文献 『華山新誌』) 「奥嶺七十翁」の下に、白文の「水谷弓夫」、朱文の「丁巳七十翁」の落款印が押されている。 |