三島 中洲 みしま ちゅうしゅう
   

鑾輿遠幸旧京城
沿路歓聲正欲喝
瑞露祥雲洛陽近
秋○○警喚相近
乙卯十一月奉送 今上幸
京都行即位礼有○作
鑾輿(=天皇の乘る車) 遠幸(=行幸) 旧京城
沿路の歓声 正に喝(=喝采)を欲す
瑞露(=目出度い時に現れる露) 祥雲(=目出度い時に現れる雲) 洛陽(=京都)近し
秋○ ○警 相近に喚(よ)
乙卯十一月(=大正4年)奉送(=身分の高い人を見送る) 今上(=現在、位についている天皇)(=御幸)
京都行即位の礼 有○の作
大正の即位の礼・大嘗祭
 皇室典範・登極令制定後初の即位の礼となる大正の即位の礼は1915年(大正4年)11月10日に京都・紫宸殿で行われた。
137p×33p

文政13年12月9日(新暦 1831年1月22日)生〜大正8年(1919年)5月12日歿
制作年 大正6年(1917) 87歳
 漢学者、詩人。名は毅、字は遠叔。号は桐南、のち中洲または絵荘という。備中国窪屋郡中島村(岡山県倉敷市)に生まれる。備中の戦国大名三村氏の一族上田實親の子孫と伝える。
 学問を志し、14歳で山田方谷に従学、陽明学を修める。29歳のとき昌平黌に入り、佐藤一斎に学ぶ。30歳で備中松山藩に仕官し、藩学有終館会頭となり、のち学頭に進む。
 方谷の備中松山藩での藩政改革ではその右腕的存在であり、この時の経験から本当の君子は利益を賤しむのではなく、義に則った利益の得方・使い方が出来なければならないとする「義利合一論」を唱えた。
 文久元年(1861)藩学教授の傍ら家塾の虎口溪舎を小高下に起こし、明治初年最も隆盛を極め、学徒は十二藩に及び塾舎常に60〜70人を越す。明治5年(1872)、朝廷の召しに応じ法官となる。
 明治10年大審院判事を退職し漢学塾二松学舎(二松学舎大学の前身)を創設した。
 東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、大正4年(1915)宮中顧問官などの要職を歴任し、皇太子(のちの大正天皇)に漢学を進講した。
 著書に「霞浦游藻」「三日文詩」「論学三百絶」「中洲詩稿」「中洲文稿」「虎口存稿」など多数がある。
 「毅」の下に白文の「三島毅字遠叔」、同じく白文の「八十七翁」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/mishima-chuushuu/mishima-chuushuu.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%B8%AD%E6%B4%B2
http://www.takahasi.okayama-c.ed.jp/yuusyu/sub13.htm
http://ftown.boo.jp/wiki/wiki.cgi?page=%BB%B0%C5%E7%C3%E6%BD%A7
http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/misima.htm
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%BB%B0%C5%E7%C3%E6%BD%A7/detail.html?LINK=1&kind=epedia


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