松下 烏石 まつした うせき
   

風窓影竹梅
  風窓 竹梅を影す。
96p×30p

元禄12年(1699)生〜安永8年(1779)歿  
 幕臣松下庄助の次男として江戸に生まれ、京都で没した。本姓葛山氏。幼名平吉、名は辰・曇一。字は君岳・竜仲・神力。号は烏石・東海陳人・金粟・武蔵野人・白玉斎。本姓は松下氏だが「源」を姓とし、書札に在っては好く「桂・葛」を氏としている。氏が葛山、名が辰なので葛辰、あるいは号を冒頭に付けて烏石葛辰と自称した。烏石という号を持つ葛山氏の辰という意味で、烏石を名字、葛辰を名と解するのは誤り。
儒学を服部南郭に、書をはじめ佐々木文山、のち細井広沢に師事し、後に歐陽詢を独学して唐様書家として名を上げた。
 烏石の号は江戸鈴ケ森八幡にあった三角形の御影石に由来する。石の上に烏の形に見える黒い模様が浮んでいた。人はこれを烏石と称して珍重し、『江戸名所図会』『東海道名所図会』『江戸砂子』など名所案内に載るまでになった。この石はもと麻布にあり、人呼んで烏石と言い、近くに住んでいた書家松下君岳が自分の号とした。人間の烏石が赤羽へ移転すると、門人たちが石の烏石も一緒に新居に移した。のち不朽を謀り鈴ケ森八幡へ移し、服部南郭が銘を執筆、人間の烏石が揮毫して石に彫り付けた。
 烏石は書家として著名であったが、同時に放蕩無頼な文人であった。「酒徒に混じりほしいままに飲み、詩を賦し放蕩す」とその伝にいう。書肆から大金を借りて返さないなど、その手の話には事かかない。
 飲酒放蕩のイメージは、実は荻生徂徠(1666-1728)の一門についてまわった評価だった。徂徠自身は謹直な人物だが、その門人はかたや太宰春台に代表される経義派、つまり固い儒学を主にした一派と、服部南郭(1683-1759)を中心とした詩文派、つまり文学制作を主にした一派と二つに分かれた。そして後者の末流は唐詩をモデルにした奔放な生活に走る者があり、世の顰蹙を買うことがあった。そして烏石は南郭の門人であった。
 烏石は放蕩無頼に加え山師の素質があった。晩年京都に居を移して、どういうわけか西本願寺門跡の賓客におさまった。『平安人物志』明和5年(1768)版によれば下魚棚堀川角、すなわち西本願寺の寺内町に居を定め、得意の書で西本願寺門跡の師匠格になっていた。
 京都で烏石は事件を起す。宝暦11年(1761)は親鸞の五百回忌に当たった。これを機に親鸞に大師号が授かるよう、宝暦4年、東西両本願寺が朝廷に願い出た。ところが東西双方に与えるわけにはいかぬと難をつけられた。それでも西本願寺は公家を通じて隠密に請願を続けた。
 ここで烏石が登場し、公家中山栄親・土御門泰邦・園基衡・高辻家長らと図り、金を出せば大師号宣下が可能になると、西本願寺や関係者に説いて出金させて着服したことが明らかになった。公家は蟄居させられたが、烏石の処置は明らかではない。
いずれにせよ山師とみなされていた人物である。ただし書家としては一流とみなされていた。
 署名はなく朱文の「○」、白文の「一名鄙人」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://tois.nichibun.ac.jp/hsis/heian-jinbutsushi/jinbutsu/9916/info.html
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-300.html
http://www.ne.jp/asahi/ohsagami/salon-koshoga/07m/t11m91.html


参考文献一覧      HOME