松本 芳翠 まつもと ほうすい

歸去來兮辭 陶淵明
歸去來兮 田園將蕪胡不歸 既自以心爲形役 奚惆悵而獨悲 悟已往之不諫 知來者之可追 實迷途其未遠 覺今是而昨非 舟遙遙以輕颺 風飄飄而吹衣 問征夫以前路 恨晨光之熹微 乃瞻衡宇 載欣載奔 僮僕歡迎 稚子候門 三逕就荒 松菊猶存 攜幼入室 有酒盈樽 引壺觴以自酌 眄庭柯以怡顏 倚南窗以寄傲 審容膝之易安 園日渉以成趣 門雖設而常關 策扶老以流憩 時矯首而遐觀 雲無心以出岫 鳥倦飛而知還 景翳翳以將入 撫孤松而盤桓 歸去來兮 請息交以絶遊 世與我而相遺 復駕言兮焉求 悦親戚之情話 樂琴書以消憂 農人告余以春及 將有事於西疇 或命巾車 或棹孤舟 既窈窕以尋壑 亦崎嶇而經丘 木欣欣以向榮 泉涓涓而始流 善萬物之得時 感吾生之行休 已矣乎 寓形宇内復幾時 曷不委心任去留 胡爲遑遑欲何之 富貴非吾願 帝郷不可期 懷良辰以孤往 或植杖而耘耔 登東皋以舒嘯 臨清流而賦詩 聊乘化以歸盡 樂夫天命復奚疑 歸りなんいざ 田園將に蕪れなんとす 胡ぞ歸らざる 既に自ら心を以て形の役と爲す 奚ぞ惆悵して獨り悲しむ 已往の諫められざるを悟り 來者の追ふ可きを知る 實に途に迷ふこと其れ未だ遠からず 今の是にしてして昨は非なりしを覺る 舟は遙遙として以て輕く?り 風は飄飄として衣を吹く 征夫に問ふに前路を以ってし 晨光の熹微なるを恨む 乃ち衡宇を瞻て 載ち欣び載ち奔る 僮僕歡び迎へ 稚子門に候つ 三逕は荒に就いて 松菊は猶ほ存せり 幼を攜へ室に入れば 酒有りて樽に盈てり 壺觴を引いて以て自ら酌み 庭柯を眄めて以て顏を怡ばしむ 南窗に倚りて以て寄傲し 膝を容るるの安んじ易きを審らかにす 園は日ゞに渉って以て趣を成し 門は設くと雖も而も常に關す 策は老を扶けて以て流憩し 時に首を矯げて遐かに觀る 雲は無心にして以て岫を出で 鳥は飛ぶに倦みて還るを知る 景翳翳として以て將に入らんとす 孤松を撫して盤桓とす
歸りなんいざ 請ふ交りを息め以て遊びを絶たん 世と我と以て相ひ遺る 復た駕して言に焉をか求めん 親戚の情話を悦び 琴書を樂しんで以て憂ひを消す 農人余に告ぐるに春の及ぶを以てす 將に西疇に事有らんとす 或は巾車に命じ 或は孤舟に棹さす 既に窈窕として以て壑を尋ね 亦た崎嶇として丘を經 木は欣欣として以て榮に向ひ 泉は涓涓として始めて流る 萬物の時を得たるを善みし 吾が生の行くゆく休するを感ず
已んぬるかな 形を宇内に寓すること復た幾時ぞ 曷ぞ心を委ねて去留を任せざる 胡爲れぞや 遑遑として何にか之かんと欲す 富貴は吾が願ひに非ず 帝郷は期す可からず 良辰を懷ひて孤り往き 或は杖を植てて耘?す 東皐に登って以て舒に嘯き 清流に臨みて詩を賦す 聊か化に乘じて以て盡くるに歸し 夫の天命を樂しんで復た奚ぞ疑はん
さあ、家に帰ろう。田園も雑草が茂ろうとしているだろう。なぜ帰らないのか。もはや自分で心を肉体の使役にしているのだから、何をうれい独り悲しむことがあろう。すでに過ぎ去ったことは諌め改めることができないことを悟り、将来のことは追いかけて間に合うことを知っている。まことに私は途にまよっていたが、まだ遠くは行ってなかったのだ。今こそ正しい活きかたで、昨日まではまちがっていたことがよくわかった。
すでに出発して舟はゆらゆらとして風にあおられ、風はひるがえって私の衣を吹く。旅人に前途を尋ねたが、朝の光がまだうす暗くてよく見えないのが残念であった。
やがてわが家に近づく。そこで私はかぶき門や屋根を見上げ、欣んではまた走って行く。召使いたちはよろこび迎え、幼な子は門で待っている。門をはいると、庭の三すじの小道には雑草が茂り、荒れかけているけれども、松や菊はまだ残っている。それから幼児の手を引いて、奥の部屋へ入ると、酒があって樽にみちている。壺や盃を引きよせて、自分で酌み、久しぶりで庭の木の枝ぶりを眺め、顔つきもうれしげに笑う。そして南の窓にもたれて、遠慮なく気ままな様子でいると、狭い庭でも結構楽しく、膝を入れるだけのわずかな場所でも、身を安んじやすいものだとよくわかるのである。
私は荘園を毎日散歩してみるが、いつもそれぞれに趣ある眺めに成る。門は設けてあるけれども訪う人も無くて、常に閉ざしてある。策で老いた身をたすけて歩き、到るところで随意に休息して、首をあげては遠くを眺める。雲は無心に、山のくぼみからわき出て、鳥は飛ぶのに飽きては、山に還ることを知っている(無心な雲は自然でわずらいのないわが心のようであり、飛ぶ鳥と同じく自分もいま故郷に帰って来たのであると思う)。日光は薄暗くかげりつつ没しようとしている。それを眺めながら、私は一本松の幹を撫でいつくしみながら、歩きまわり、立ち去りかねるのである(この松が人生の夕暮れに、ひとり操を守る自分の姿に似ているように思われる)。
さあ家に帰ろう。そうして帰った上は、どうか交わりをやめ、世人との遊びを絶ちたい。世間と私とは相方から互いに忘れ合おう。再び車に乗って何を求めに行こうか。今は何の望みもない。親戚の情のこもった話を悦び、琴や書物を楽しんで憂いを消すのである。農夫は私に、もう春になったことを告げる。これから西の田に仕事が忙しくなろうとしているのだ。或る時は巾をかけて飾った車に命じ、或る時は一艘の舟に棹さし、うねうねとした深い谷川の奥をたずね、また高低のはげしい山路を通って丘を超えて行き、山水の美景をたのしむ。木々はよろこばしげに、枝葉がしげり花咲こうとしており、泉は滴りながら、はじめて氷がとけて流れ出ている。こんな春のいぶきを見て、万物がよい時節を得て、幸福そうな様子を、私は喜ぶのであるが、またそれに比べて私の生命がだんだん終りになるのを思って心が動くのである。春が来て春が逝く、こうして人生は過ぎて行くのである。
すべてはもう終りである。この世に肉体を寄せているのも、あといく時であろうか。残り少ない人生を、なぜ自分の心にまかせ、自然の推移である死生にまかせないのか。(今更義理や人情、世間体のために自然にさからう必要はないのだ。)何のために、いそがしくどこに行こうとするのか。もうどこにも行って求めることはないのである。富も貴い身分もわが願いではなく、また永遠の神の国などは、望むこともできないのである。そこでよい時節を思って自分でひとり往き、或る時は杖を田の土に立てて草ぎり耕し、土寄せをしたりする。或る時は東の高い岸に登ってのんびりと嘯いたり、清らかな流れのそばに立って詩を作って歌ったりする。このようにして、しばらく自然の変化のまま推し移って、最後は尽きて終わることにし、古の人も教えたように、あの天命を楽しんでまたどうして疑おうか。心をわずらわさずに安んじて生きることにしよう。(星川清孝訳)
    
明治26年(1893)生〜昭和46年(1971)歿
 1893年(明治26年)1月29日、愛媛県越智郡伯方島に生まれる。16歳で上京、明治薬學校卒業。傍ら書法を加藤芳雲、近藤雪竹、日下部鳴鶴の諸先生に学ぶ。
 大正10年、書海社を創立し機関誌を発行して書道の普及に尽痒する。篆・隷・楷・行・草・仮名すべての体に長じたが、大正11年29歳で平和博覧会併催の書道展に紺紙金泥の細楷正気歌で金賞を受賞して以来、「楷書の芳翠」と世に名を馳せた。その楷書は欧陽詢の九成宮をベースに、晩年は北魏の鄭道昭を取り入れ、方にして円、背勢にして向勢、秀麗端正な中に高い完成度を示し、一世を風靡した。また、行書の格調の高さを、かつてある人は「昭和の文徴明」と評した。草書は書譜をベースとして華麗である。書論では、書譜における「節筆論」で知られる。漢詩もよくした。
 昭和3年戊辰書道会を創立、昭和6年には泰東書道院の創立に尽力し、昭和6年新たに東方書道会を興した。
 戦後は日展審査員となり、昭和29年芸術選奨文部大臣賞、昭和34年日本芸術院賞を受賞、昭和46年日本芸術院会員に推された。財団法人書海社理事長、日展参与。著書に『書道入門』『臨池六十年』などがある。
 1971年(昭和46年)12月16日、歿する。79歳。
 私は大学卒業後、しばらくの間、財団法人書海社に勤務し、直接ご指導を賜った。写真は、書海社の新年会の折りのもの。


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