松本芳翠 まつもと・ほうすい

海天秋雨灑昬黄
不見欄前明月光
名士如星今夜宴
墨華U々照瓊觴
丁卯九月三五夜大倉招宴席上作
邨上先生一粲 芳翠英
海天(=海上の空)秋雨にして 昬黄(=たそがれ)を灑(=ちら)
見えず欄(=手摺)前 明月の光
名士星の如し 今夜の宴
墨華(=席上揮毫の書作品)U々(=光り輝き)として 瓊觴(=美しい玉杯)を照す
丁卯(=昭和2年)九月三五夜(=新暦1927年10月10日)大倉男(=男爵。大倉財閥2代目総帥大倉喜七郎)招宴席上作
邨上先生一粲
 芳翠先生は前年(大正15年)大倉喜七郎氏の書道師範となり、築地酣春楼で催された観月会に招かれました。その際に作られた漢詩を細楷で書した「観月集」が残っています。最後に栢梁体聯句がのっており、これにより当日の出席者がわかります。
 この作品は翌年の観月会の際の作品で、同様の出席者があったと思われます。
 また、丁卯(=昭和2年)九月三五夜と書かれていますが、9月15日と読めば新暦1927年10月10日ですが、この日は、東京は晴れています。気象庁に前々日が大雨だった記録が残っており、或いは10月8日だったかもしれません。
34.3p×139.3p

   
明治26年(1893)1月29日生〜昭和46年(1971)12月16日歿
制作年 丁卯(=昭和2年) 35歳
 1893年(明治26年)1月29日、愛媛県越智郡伯方島に生まれる。16歳で上京、明治薬學校卒業。傍ら書法を加藤芳雲、近藤雪竹、日下部鳴鶴の諸先生に学ぶ。
 大正10年、書海社を創立し機関誌を発行して書道の普及に尽痒する。篆・隷・楷・行・草・仮名すべての体に長じたが、大正11年29歳で平和博覧会併催の書道展に紺紙金泥の細楷正気歌で金賞を受賞して以来、「楷書の芳翠」と世に名を馳せた。その楷書は欧陽詢の九成宮をベースに、晩年は北魏の鄭道昭を取り入れ、方にして円、背勢にして向勢、秀麗端正な中に高い完成度を示し、一世を風靡した。また、行書の格調の高さを、かつてある人は「昭和の文徴明」と評した。草書は書譜をベースとして華麗である。書論では、書譜における「節筆論」で知られる。漢詩もよくした。
 昭和3年戊辰書道会を創立、昭和6年には泰東書道院の創立に尽力し、昭和6年新たに東方書道会を興した。
 戦後は日展審査員となり、昭和29年芸術選奨文部大臣賞、昭和34年日本芸術院賞を受賞、昭和46年日本芸術院会員に推された。財団法人書海社理事長、日展参与。著書に『書道入門』『臨池六十年』などがある。
 1971年(昭和46年)12月16日、歿する。79歳。
 私は大学卒業後、しばらくの間、財団法人書海社に勤務し、直接ご指導を賜った。
 「芳翠英」の下に、白文の「松本英印」、朱文の「芳翠」の落款印が押されています。


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