股野 藍田 またの らんでん
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三笠山前 自行(=自己の修行)を踏む 都門 豈に有らん 此の幽清 絶佳(=非常に美しい) 秋色 人 賞する無かれ 我 和み 吟に耽(ふけ)れば 唯だ 鹿の声 寧楽(=安楽)口占(=草稿をつくらずに詩をつくる)の一 |
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138p×33p |
天保9年(1838)生〜大正10年(1921)歿 製作年 大正元年(1912) 75歳 (明治45年は7月30日に大正に改元された。詩文に「秋色」とあり、7月から秋で微妙だが、大正元年と判断した。) |
播州龍野藩儒の股野達軒の子。名は琢、藍田は字、小玉・邀月楼主人と号する。 19歳の時に大阪に遊学し、21歳で江戸に出て藤森天山・安積艮斉に学び、湯島聖堂にも入った。維新後、官途に就き宮内省出仕、調査課長、内事課長を経て勅任官となり、久邇宮山階宮両家別当、帝室博物館総長、内大臣書記官長を歴任、詔勅起草委員、明治維新史編集官等も務めた。大10年薨去、従二位勲一等、旧藩主脇坂家の菩提寺東京青原寺墓地に眠る。 股野藍田は高級官僚としての功績に留まらず、帝室博物館総長として当時漸く芽生え始めた文化財保護にも大いに貢献し、明治45年(1912)大原重徳、三條実美両者の勅撰神道碑撰文の勅命を奉じて成稿しご嘉納を賜った。 その他にも数多くの碑文を撰し明治後期から大正にかけての日本の漢文学の最高権威の一人であり、書家としても名を残している。 引首印は朱文の「放浪風月」、「七十五翁藍田琢」の下に、白文の「股野琢印」、朱文の「藍田老仙」の落款印が押されている。 推奨サイト http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-759.html http://www.shogaya.com/html/matano-randen01.htm |