蒲生 君平 がもう くんぺい
   

廟古烈風對落暉
蕭索白楊葉初飛
山川顧望前封地
涙落關東一布衣
遊會津有感
廟古の烈風 落暉(=落日)に対す
蕭索(=もの淋しい)白楊 葉初めて飛ぶ
山川 顧望(=遠くから振り返ってみる)す 前封地(=領地)
涙 関東に落つ 一布衣(=庶民)
遊会津有感
135p×57.5p

明和5年(1768)生〜文化10年7月5日(新暦1813年7月31日)歿
 尊王論者、海防論者。諱は秀實、通称は伊三郎、号は修静、字は君平・君蔵。同時代の仙台の林子平・上州の高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる。
 生家は下野国宇都宮の燈油商で、父は福田正栄。父の没後、兄が家業を継いだ。君平は自ら経史を学び、鹿沼石橋町の儒者・鈴木四郎兵衛(沢民)に師事した。
天明8年(1788 17歳)に、祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝に倣い、自ら姓を蒲生と改めた。寛政2年(1790)に敬愛する高山彦九郎を石巻に訪ねるが会えず、帰路仙台で経世家林子平に会って国事を論じた。また、水戸藩士藤田幽谷(1774〜1826)に感化を受けた。
 若いころから全国をめぐり、寛政8年(1796)初めて上洛し、歴代の天皇陵が荒廃しているのを知り畿内の山陵を調査した。途中で伊勢国松坂の本居宣長を訪ねた上で更に佐渡に渡り、順徳天皇陵も実地踏査した。その後、水戸へ赴くが、同12年(1800)再び入洛して調査をすすめ、実地調査と実証的研究に基づいた『山稜誌』を著した。彼は同書の中で、「前方後円墳」という呼称を初めて使用した。同書は尊王論の先駆けと言われ、幕末の思想界への影響は大きい。在京中は,歌人小沢蘆庵(1723〜1801)のもとに寄宿していた。
 享和2年(1803)に江戸に出て大学頭の林述斎に学び、折からの樺太・択捉島へのロシアの侵出を憂いた。文化元年(1804)に吉祥寺の近くに学塾「静修庵」を開いた。文化4年(1807)にはロシア軍艦が北辺を脅かすのを知り、北辺の海防論『不恤緯』を著して、幕府に対して海防の必要性を訴えて処罰の対象とされたが、罰は免れている。その他に、古来からの官職の変遷を記す『職官志』、『皇和表忠録』『女誡国字解』『修静庵遺稿』などがある。
 文化7年(1810)江戸に閉居し、子弟に学問を教えながら著述に励むも、志半ば、46歳をもって江戸に没した。
 明治2年12月、明治天皇は先生の功績を賞し、勅旌碑が建てられ、さらに明治14年5月正四位を御贈位された。
 「蒲生秀實」の下に、朱文の「蒲生秀實」、同朱文の「君平壽」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%90%9B%E5%B9%B3
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/gamou.htm
http://www.gamoujinja.com/g_yuisyo.html
http://spysee.jp/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%90%9B%E5%B9%B3#lead
http://www.pref.tochigi.jp/intro/tochigiken/hakken/jinbutsu1_13.html
http://www.bekkoame.ne.jp/~koba-hiro/kunnpei/gamou.html
http://odekake.jalan.net/spt_13106aj2200026030.html
http://kobahiro962hk.jugem.jp/?cid=10
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa016.html
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/neet13.html
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/gamou.html
http://www.tabiken.com/history/doc/D/D311L100.HTM
http://kobahiro962hk.jugem.jp/?cid=102
http://www.isekiwalker.com/iseki/228439/
http://www.ueis.ed.jp/school/nisihara/introduction/tiiki-hp/gamoukunnpei.html


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