国府 犀東 こくぶ さいとう
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癸酉(昭和8年)坤月(10月)初四(4日) 古中秋の夕 濹上 柳光亭の雅集(風流な集まり) 席上で作った 柏梁体連句 「犀東」の下に、白文の「種徳」、朱文の「犀東」の落款印 青園・亜洲・獨青・鶴洲・梧堂・備山・「犀東」の下に、朱文の「犀東」の落款印 獨青・梧堂・青園・亜洲・鶴洲・備山・「犀東」の下に、朱文の「犀東」の落款印 聯句成時 月在天心 興王氣澂 客忘歸 割愛 竟滿 車載 月而去 「犀東小題」の下に、白文の「國府種徳」、朱文の「犀東」の落款印 |
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134p×63p |
明治6年(1873)生〜昭和25年(1950)歿 製作年 昭和8年(1933) 61歳 |
漢詩人・新体詩人・文章家。幼名は長松のち種徳(タネノリ)、初号は聴松。金沢市堅町(犀川の東)生れ。東京帝国大学法科中退。1907(明治40)内務省に入り、内務省内閣各嘱託、宮内省御用掛、史蹟名勝天然紀念物調査会考査貝などを歴任し、雑誌「太陽」や「大阪毎日新聞」に時事を評論し、慶応義塾、東京高等学校に教鞭をとり、至るところで才能を発揮した。大正・昭和初期の詔勅などを起草する。 文章家をもって鳴り、『犀東文集』は好評を博した。秋声会・筑波会会員。漢詩を能くし、多くの詩を発表、放送をもととしてまとめた『漢詩鑑賞笙蹄』や『花柘摺』(1901)があり、他に『犀東文集』『龍吹鶴語』等著作がある。 なお、室生犀星は、犀川の西に生まれ育ったことから、国府犀東に対抗して犀星という筆名を付けたという。 推奨サイト http://fine-vn.com/cat_22/ent_57.html http://homepage1.nifty.com/jinseki/kokubu.html 出席者 青園 南 弘 みなみ ひろし 明治2年10月10日(1869年11月13日)生〜昭和21年(1946年)2月8日歿。 日本の官僚・政治家。逓信大臣退任後、1943年(昭和9年)に国語審議会会長、1936年(昭和11年)に枢密顧問官に任じられた。国語審議会会長としては、それまでの国語が文語体やいわゆる旧仮名づかいを中心とし、漢字が多用されていたことなど学習が困難であるという認識から、その簡素化に尽力した。 学問をよくし、特に漢詩の素養は高く、青園と号して「青園詩草」という漢詩集を残した。1937年(昭和12年)、内務省から保健・衛生部門等を独立させた新たな省を設立することとなり、その省名を検討していた際、中国の古典「書経」の「正徳利用厚生惟和」の一節から引用した「厚生省」の名を推薦して採用されており、「厚生省の名付け親」とも呼ばれている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%BC%98 梧堂 中西梧堂(1895〜1984) 歌人・詩人・野鳥研究家。金沢市長町生まれ。昭和3年頃から野鳥や昆虫の生態を研究し、昭和9年「日本野鳥の会」を設立。機関誌「野鳥」を創刊。猟の対象としてではなく、鳥を観察することをはじめて普及した。文学者や画家との交流が深い。文明批評やエコロジーでも先駆的存在となった。 |