夜雪庵金羅(四世) 
   

剪燈靜坐夜扄廬
遥思蘇小雪没車
蹇予清世遂無用
飽得興畫閑讀書
剪燈 静かに坐す 夜の扄廬(=戸締まりをした庵)
遥かに思う 蘇小(=芸妓) 雪に車 没するを
(かね)て蹇(かか)げる清世 遂に無用
(=満腹する)を得て 画に興じ 閑に読書す
23.2p×21.1p

天保元年(1830)生〜明治27(1894)年10月3日歿
 夜雪庵金羅は、本郷湯島の俳人で、高弟の新井繁五郎は幕末三舟の一人、高橋泥舟と同門であった。また、東京市京橋区木挽町の初音会より発行された滑稽系の文芸誌「人来鳥」の「俳句」の選者をつとめた。
 森無黄は俳誌『卯杖』で「夜雪派は、正風派の嫌ひて用ひざりし殺風景なる材料、即ち生首、獄門、盗賊などの類、又は、生めきたる材料、即ち花柳界の消息などを詠みしことを聞けり。是れ該派の一種の創見にして、今の語を以て之を名づくれば、当時の新派なりしなり。旧来食はざりし物なりとて、牛肉豚肉を食ふべからずと云ふ道理はなきことなり。」と「夜雪派」を評価している。「正風派」が「嫌ひて用ひざりし殺風景なる材料(素材)」に積極的に取り組んでいるというのである。その点では「当時の新派」であると言っている。そして、さらに次のごとき見解を披瀝している。「西洋の画論者の云く、画は真を写す者なり。雪隠の図を写すも、犬屎を写すも、美術たるを失はずと。死屍を写し、病人を写すこと、何ぞ憚るべきや。俳諧も亦社会の実を写すの美術なり。金瘡を句に詠まんこと何ぞ妨げん。正風の古人中、適々仁義五常の道に外れたる事を詠むべからず、盗賊・火事など詠むべからず、と云ひたる人あれど、是決して守るに及ばざる事にして、蕉門の名家に在ても之に反する句の例多きは人の知る所なり。但此等の材料は、其の用ひ方に依りて句の品格を堕すことあり。其は作者の力に依ることにして、敢て此の材料を用ひたる句が悉く悪句なりとは云ひ難きことなり。」と。これまた首肯すべき見解であろう。

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