菊池 海荘 きくち かいそう
   

南朝古歩鎖寒霏
六百春秋一夢兆
幾致問天天不答
雪致山下谷雲歸
南朝の古歩(=古道) 鎖され寒く霏たり
六百春秋(=年) 一夢の兆
幾れに致るか天に問うも 天答えず
雪は山下に到り 谷 雲帰る
133.3p×31.0p

寛政11年9月25日(新暦 1799年10月23日)生〜明治14年1月16日(新暦 1881年2月14日)歿
 本姓は垣内氏だが、南朝の忠臣菊池武光の子孫のため、菊池氏を名乗った。名は保定、字は子圃・士固、通称は孫助・孫左衛門、号を溪琴・海叟・海荘・海迂・蓮峰・生石・琴渚・慈庵などと称した。
 紀伊栖原(和歌山県有田郡湯浅町)の豪商の家に生れ、武芸をよくした。兄が仏門に入ったので、13歳で江戸に出て、家業の砂糖・薬問屋を継ぐ。文学を好み、大窪詩仏(天民)に詩を学んだ。
 天保7年(1836) 天保飢饉時に私財を投じ、坂の改善・港の修復など失業対策事業で窮民を救済する。海防・殖産にも尽力。大坂の飢饉では、大塩平八郎と救済策を建議したが要れられず有田の故郷に帰る。
 明治2年(1869)有田・日高2郡の文武総裁となり、農兵を組織。慶応年間に大原重徳を頼り国政意見を上陳。有田郡民生局副知事。郷学所を創り養蚕・製茶に貢献する。辞職後東京に移る。渡辺崋山(1793-1841)、佐久間象山(1811-1864)、大塩平八郎(1793-1837)らと親交を結び、国内、世界の情勢に通じていた。
 晩年は郷里で「古碧吟社」を起こして吟詠嘯傲の生活を送り、作詩に関しては、詩仏の門から出て出藍の誉れ高く、紀州の生んだ祇園南海以後の第一人者と称されている。
 著書に『国政論』、『内政論』、『農政私議』、『渓琴山房集』、『海荘集』などがある。
 養子に菊池菊崖がいる。その第2子が漢学者・詩人の菊池三九郎(1859-1923)。
 「海叟」の下に、白文の「菊池保定」、朱文の「士固氏」、白文の「海迂叟」、朱文の「忠臣遠孫」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/kikuchiKaiso.htm
http://fine-vn.com/cat_19/ent_6.html
http://kotobank.jp/word/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E6%B5%B7%E8%8D%98
http://www.wakayama-u.ac.jp/kisyuken/page-19.html
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-757.html
http://www.wood.jp/sy/miya25.htm


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