市河 寛斎 いちかわ かんさい
   

文華那更間開殘
留着萬芳筆墨間
展盡誰畤長不忘
烟霞涼日過春山
庚午夏日為
田子忠   
寛斎寧   
文華(=文明が華やかで) 那ぞ更に 間開残す
留め着く 万ず芳し 筆墨の間
展び尽くす 誰が畤(=祭りの庭) 長忘れず
烟霞(=自然の趣) 涼日 春山を過ぎる


    
34.7p×24p


寛延2年(1749)生〜文政3年(1820)歿
制作年 文化7年(1810) 62歳
 上州上野国(群馬県)に生まれる。本名は世寧、字は子静・嘉祥、通称を小左衛門。西野・寛斎・半江・西鄙人・江湖詩老などと号した。中国人風に河世寧と修姓することがあった。
 安永2年(1773) 25歳の時、初唐の李?『雑詠集』を得て、『全唐詩』や『唐詩紀』を参考にして校正を加えた。安永5年(1776) 28歳の時、江戸に出て林家の門人になり、天明3年(1783)より7年まで湯島聖堂(昌平黌、後の昌平坂学問所)の学頭に任ぜられたが、寛政2年(1790)異学の禁により教授を辞し、翌年、富山藩儒になった。昌平黌時代に寛斎は平安以前の漢詩を集成する『日本詩紀』を編纂した。また『全唐詩逸』を完成させた。
 しかし寛政異学の禁にともなう学制改革でその職を追われ、お玉が池に「江湖詩社」という漢詩の社中を開設し、菊池五山・柏木如亭・大窪詩仏らの多くの弟子を育成した。18世紀後半、漢詩の世界は日常的リアリズム重視の詩風へと推移した。寛斎は江湖詩社を結成し、明の古文辞格調派の影響をうけた詩風から、詩人の個性を尊重する新しい詩風を定着させた。その弟子の詩仏はさかんに各地に遊歴を行い、それで得た資金をもとに詩聖堂をつくった。漢詩の日本化、大衆化はこの時期急速にすすんだ。
 書は父蘭臺とともに、細井廣澤の流れをうけたが、自らは米芾・董其昌に私淑し、一家の風をなした。
 文政3年(1820)7月、72歳で没し、本行寺に葬られた。墓碑銘は寛斎の長子で、書家の市河米庵の撰による。米庵もまた本行寺に葬られている。
 「寛斎寧」の下に、朱文小判下駄判の「世寧」の落款印が押されている。

推奨サイト
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